何だかんだ言っても、やはりみんな幸福な生活を望んでいるのではないでしょうか。そのために、日々生活し、活動し、出逢いなどなど行っています。日常の生活で感じた事、実際に経験したことなど、徒然のままに、記録してみます。
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2023年12月9日土曜日
【出版妨害事件】トランスジェンダー「活動家」に屈したKADOKAWA「言論の自由」は死んだ!【デイリーWiLL】
【出版妨害事件】トランスジェンダー「活動家」に屈したKADOKAWA「言論の自由」は死んだ!【デイリーWiLL】
2023年12月8日金曜日
第五章 日本復活のカギを握る“エコロジー”発想 「もの」から「こころ」へで何が必要か
第五章 日本復活のカギを握る“エコロジー”発想
「もの」から「こころ」へで何が必要か
本著では動物の生態、人間の体について多くのページをさいてきました。それは「もの」が無機質で機械的であり、架空の現境を作るものであるのに対して、「こころ」は人間の奥深いところにあり、生命であり、それが本当のものであるからです。それは人間と動物の関係をより密接にするものであり、あまりに他の生命と離れたわたしたちを回帰させるものだからです。
ここに本著を閉じるにあたって、オオカミの夫婦愛を示し、ものの時代に疲れたわたしたちがこころの時代に帰る場所の描写に代えたいと思います。
オオカミは夫婦仲が大変良いことで有名です。一つの群れはだいたい一〇頭程度ですが、一〇頭という数は、一組の夫婦を中心としてその年に生まれた子供、前の年に生まれた子供が集まって一つの群れを作るからです。リーダーは父親で、父親はその腕力で家族の縄張りを確保し、群れの食糧を保証します。そして、何事も起こらなければ、この一つの群れで狩りをしますが、非常のときや大型の獲物を捕るときには数個の群れが協力することもあります。
秋にツンドラ地帯を移動するトナカイの大群を追うときは群れが合同します。時によっては五〇頭ものオオカミが一斉に行動を起こしますが、トナカイの大群を追うオオカミの行動は「狩り」という一つの目的だけを持っているわけではありません。
集団での狩りは同時に、若いオオカミ同士の「お見合いの場」。人間でもそうであるように、多くの場合、血が近い結婚は良い結果を生みません。遺伝学はおろか、祖先からの言い伝えもないオオカミも、できるだけ遠い血と交わるのが種族にとって良いと長い進化の歴史で学んでいます。
この狩りのチャンスを生かして多くの若いオオカミが結婚します。その意味で、トナカイの狩りは「オオカミの集団お見合い」と言えるのです。
オオカミの家族は常に父親を中心に行動します。特に強力な敵が来たときには父親が家族をかばって戦い、母親は子供を連れて避難させますが、父親は自分の命を賭けて敵と戦い、子供を守るのです。敵が自分より強力で死ぬと判っても父親は逃げません。家族のために戦って死ぬのがオオカミです。
一方、父親が戦っている間に、母親は子供を逃がすのですが、オオカミはそのときのために数カ所の巣をもっています。母親は戦いの様子を見て最も安全な巣に子供を移動させるのです。このように、オオカミの夫婦の間には「役割分担」がありますが、それは合理的なように見えます。だからといって人間の夫婦に役割分担が必要とは思いませんが。
ところで、オスの戦闘力はこのように敵と戦い、家族を守るために備わっていますが、発情期のときは別です。オオカミは冬の間に発情し、オスはメスを争って激しい戦いを繰り広げます。
「最も強いオスが望みのメスと結婚する」
というのがオオカミの繁殖の決まりだからです。このルールは多くの動物で採用されていますが、オオカミには特別に 難しい問題があります。あまり戦闘力のない動物の場合にはオス同士は互いの力を存分に出し切って戦ってもよいのですが、オオカミはもともと敵と戦うために鋭い牙や俊敏な運動神経を持っていますので、この武器を仲間との争いに本気で使うと、そのまま仲間の死を意味することになるからです。
そうはいっても、本気で戦わないとどのオスが本当に強いか判らなくなり、ルールが正確に適用できません。そこで、この矛盾を解消するために、オオカミの戦いには「戦いの仁義」、つまり人間で言えば、スポーツのルールに相当する規則を決めています。
オス同士の戦いの場合は、「死を賭けた本当の争い」を「序列を決めるための仮の争い」に転化させるのです。オオカミ の戦いのルールは、「これ以上戦っても勝ち目がないと思ったら、負けた方が急所の首筋を無防備のままにさらけ出す」というものです。戦いに負けたオスが、この姿勢をとると戦いはただちに終わりです。勝利したオオカミはそれ以上は決して攻撃をしません。このようなルールはオオカミばかりでなく、強力な武器を持つ動物が仲間内で戦うときにしばしば見られる仁義で、例えば、猛毒を持つコブラも仲間同士で激しい戦いをしますが、決して仲間の間の戦いには毒は使わないことが知られています。
『日本社会を不幸にするエコロジー幻想』 武田邦彦著 (青春出版社 平成13(2001)年刊)
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2023年12月7日木曜日
環境の三つの意味
環境の三つの意味
最後に、わたしたちが普段、なにげなく使っている「環境」という言葉についてまとめてみます。環境には、少なくとも三つの意味があります。まず、
● 第一は普通に使われるいわゆる「環境」で、人間に対して外的な存在です。「周囲環境」と言ってもよいでしょう。
周囲環境は本著で「架空である」と表現したように、ものの時代に破壊されてしまいました。だから、わたしたちはそれを作り直す必要があります。それも、日本中をコンクリートで固める前に思い直さなければなりません。
そしてこれから作り直す周囲環境は、「ものの時代」の名残をいっさい消し去るくらいの覚悟が必要です。例えば、ガラスのリサイクルが進められていますが、ガラスのリサイクル自体はそれほど問題はありません。リサイクルしやすいガラス製品は、混じると性能が落ちるアルミニウムを丁寧に除いてリサイクルすれば有効でもあります。
そのなかで、ガラスをリサイクルするとクロムという元素が徐々にたまる問題もあります。こちらの方は、環境という意味で別の問題を投げかけます。クロムの蓄積は、ガラスが汚いグリーンの色に染まる結果をもたらします。
「ものの時代」には環境を次のように考えます。
……ガラスはリサイクルした方がよい。ものは大切にしなければならない。色が少しぐらい汚くても、ものを大切にすることの方が重要だ……。
それに対して「こころの時代」はこう考えます。
ものは大切にした方がよいが、それより大切なのはこころだ。汚い色のビンに入った飲みものを飲むくらいなら飲まないほうがマシ。
● 第二の環境は自分の体とこころです。それについても本著では宇宙人や骨が盗まれる、そしてお酒などを例にとって説明をしました。現境は周囲環境だけで成立しているのではありません。
いかに優れた自然環境が提供されても、それを受け止める体とこころがなければムダというものです。その点で、環境とは、周囲環境と、自分という一つのまとまった宇宙としての、内的環境があることを指摘したいと思います。
著者の友人で自然派の人がいます。その人があるときこのように言いました。
「北海道に自転車旅行に行ったときのことです。そのとき、強烈に感じたことがあります。それは不思議なことに、それまでオートバイで行ったときと同じ景色を見ているのに、自転車で行ったときの方がものすごく美しいのです!」
額に汗をかかなければ景色は美しくない……このことは、環境が周囲環境と内的環境でできていることを端的に示しています。そして、
● 第三の環境は人間のつながりでできる「つながりの環境」です。
この社会は、自然や人工物というもので組みあがった環境(周囲環境)と、人間の体とこころという環境(内的環境)、そして、多数の人間がお互いの関係で成立する「情報環境」でできているように思われます。この人間同士のつながりによってできる環境はまだ明確にその存在が示されているわけではありませんし、自然や人工物のように物質で示すこともできません。しかし、多数の人間がかもしだすある特定の情報は、それが組み合わさり、常に高密度の情報が交換され ることによって実体をもつものになっているように感じられるのです。そしてこの傾向はインターネットなどの情報技術が進んだ世界では、より主要な役割を果たすようになると考えられます。
生物の世界には原始的なボルボックスの生態研究などである程度、研究が進んでいますが、まだ「環境」という視点ではとらえられてはいません。ただ、本著が時間、感動、そして愛用品について触れたのは、環境が単なる周囲環境や内的環境にとどまらず、人と人の関係によって生じる情報環境にも目を向けてもらいたいとの願いからです。
わたしたちは、人類の叡智を信じたいと思います。それは地球上のすべてのものを食べ尽くす凶暴な草食動物ではなく、部分の正しさを主張して全体を見失うほどおろかでもない、そういう存在でありたいと願います。
『日本社会を不幸にするエコロジー幻想』 武田邦彦著 (青春出版社 平成13(2001)年刊)
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2023年12月6日水曜日
人間の真の幸福は、人間社会全体が、永続的に豊かな生活をするため
人間の真の幸福は、人間社会全体が、永続的に豊かな生活をするため
人間には「医学」という都合の良いものがあります。病気になったら熱を冷まし、ケガをしたら修繕ができます。それはそれで結構ですが、そのために、他の動物まで、実験動物として犠牲にするのは共存とは言えないと考えられます。
人間の健康と医学の発達のためだけに、これほど、自由自在に動物を実験に使う、生命を軽んじるという態度は、やがて生物としての人間に、「命の尊厳」を忘れさせるかもしれないからです。
もちろん、地球そのものとの共存を考えたら、ビルを壊した廃コンクリートで日本の平野をすべて埋め尽くすということもできないはずですし、太陽電池ですら、太陽の光を借りるという点で多少なりとも遠慮する気持ちがでると思います。
少しでも長く生きたいから実験動物を使うのは正しい、少しでもものが欲しいから土をコンクリートで覆ったほうがよい、というのは「部分的な正しさ」です。人間の真の幸福は、人間社会全体が、永続的に豊かな生活をするためであり、それにはおのずから制限があることを知らなければなりません。
わたしたちは、「地球にやさしく」「環境を守る」と盛んに言っているのに、繰り返し「共存」を唱えているのに、片方でそれと全く違う行動をとっていることが判ります。それは、「裏でサルを実験動物として使い、表でサルと友達になろうとしている」ようにも見えるのです。
架空の環境は人間にとって都合の良いように思いますが、それは人間から「誠実」を奪っているように思えます。普通の神経の人だったら、サルと友達になろうとしているときに、そのサルをアルツハイマーにさせることはできないでしょう。人間には良心もあり、「痛むこころ」があり、矛盾した行動をいやがってきたのです。
「冷凍食品」のところで、わたしたちは自然との距離が遠く離れていることを知りました。そして、「人間肝臓ブタ」では、わたしたちが他の生命との共存をやめようとしていることも知りました。
人間は、「命」と「自然」という、一番、大切な環境と決別しようとしているように感じられます。もともと、環境は「誠実」なものです。自然、そこに棲む生物は、みんな、自分を守り、少しでも長く生きようとしても、死は等しく、偶然に、そして厳然として訪れ、すべてのものがその現実に従容として従ってきました。
そして、自然は、正直で現実的です。突然、強い風が吹き、これまであんなに苦労して巣をつくり、やっと雛が大きくなりはじめたのに……そのためにこそ、これまで長い間、苦労に苦労を重ねたのにそれが一瞬のうちに飛ばされる……希望は希望、望みは望みであり、そして現実はそれとは別にある……それが自然です。
このような自然の環境がわたしたちの周りにあればわたしたちのこころは誠実になるでしょう。ウソはウソ、矛盾は矛盾として感じ、決して「裸の王様」にはなりません。
『日本社会を不幸にするエコロジー幻想』 武田邦彦著 (青春出版社 平成13(2001)年刊)
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2023年12月5日火曜日
"自然との共存"の考えをあらためる
"自然との共存"の考えをあらためる
環境を考える上で大切なことの一つ、「共存」ということについて少し整理をしてみます。
地球環境を守る第一歩は「共存」といわれます。それはもう、常識的ですらあり、日本の新聞を読むと「自然との共存」はすでに当然のように語られ、対談記事や環境シンポジウムの特集では繰り返し、「共存」という用語が踊ります。
この「共存」という言葉は、地球上に一緒にすむ生きとし生けるものとの共存であり、"地球そのもの"との共存です。人間が出現すると、すべての生物の生殺与奪の権利が人間に与えられ、人間の道具としてかしずくことではありません。
かつては人間の行為は、共存との間になんの矛盾もありませんでした。それは、豊かな生活を実現すること、幸福を求めることは、自然との共存、他の生命との共存のなかで作られる環境にこそあったからです。
しかし、現在、もし人間が他の生物、そして地球そのものとの共存を望むなら、わたしたちの行動はかなり修正を余儀なくされるでしょう。臓器が傷んだからといって、「人間からだブタ」を大量に飼育し、そのブタから臓器をもらって手術をしたり、肌に皺が目立つようになったから「人間皮膚ブタ」の皮膚をはぎ取って交換し、さらには骨が弱くなったからといって「人間骨ブタ」の骨に取りかえることを意味していません。
サルをアルツハイマーにかけることに成功したと報じられました。ともに霊長類であり、本来、共生すべき生命を、人間のために病気にまですることもないでしょう。
もし、共存というのが人間と他の動物との共存を示すなら、サルをアルツハイマ ーにすることは人間自体の生きる意味を失わせるからです。
「共存」とは、少し長生きするより、サルがそばにいて、一緒に生活をともにすることを選択することです。
最近では、さらに細胞レベルでの移植医療の可能性も研究されています。真の意味での共存を大切にしない限り、科学による自然の破壊は際限ないのです。
『日本社会を不幸にするエコロジー幻想』 武田邦彦著 (青春出版社 平成13(2001)年刊)
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