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2026年5月21日木曜日

第四章・覚醒の時代 連載第七十四話 夜明けの台所

第四章・覚醒の時代 連載第七十四話 夜明けの台所
第 四 章 ・ 覚 醒 の 時 代
第 七 十 四 話

夜明けの台所

― 自 分 の 毎 日 の 、 三 つ 目 の 顔 ―
紙包みの束を、家に持ち帰った夜から、自分の毎日は、もう一つの顔を、持ち始めた。
十味の生薬は、それぞれの紙包みのまま、通気性のある箱に、収めた。湿気が、生薬の質を、損なわないように。台所の片隅、湿気の少ない場所を選んで、その箱を、静かに、置いた。当帰の紙包み、升麻の紙包み、紫根の紙包み、芍薬の紙包み、牡蛎の紙包み、甘草の紙包み、川芎の紙包み、黄耆の紙包み、忍冬の紙包み、大黄の紙包み——十の紙包みが、箱の中で、整然と、並んでいた。
天秤ばかりを、自分は、わざわざ、買ってきた。
分量の精度を、自分の手の中に、確かなものとして、握っておきたかった。料理用の計りでは、なかった。皿が二つあって、片方に分銅を載せ、もう片方に生薬を載せて、釣り合わせる、あの古い形の天秤ばかり。書物のご指示どおりの分量を、毎朝、再現するためには、その精度が、必要だった。台所の小さな机の上に、その天秤を、設置した。それが、夜明けの台所の、最初の道具となった。
◇ ◇ ◇
夜明け前の台所に、自分は、静かに、立った。
何時頃から、台所に立ったかは、もう、覚えていない。たぶん、三時か、四時頃だったろう。外は、まだ、暗かった。家の中は、しんと、静まっていた。妻は、別の大きな病院に、入院していた。家には、健慈と、自分だけが、いた。健慈は、まだ、寝床の中で、深く眠っていた。台所の小さな明かりを、灯した。それだけが、家の中の、唯一の光だった。
通気性の箱から、十の紙包みを、一つずつ、取り出した。
天秤ばかりの皿の上に、紙を一枚、敷いた。そこに、当帰の生薬を、少しずつ、載せていく。反対側の皿に、四・〇グラムの分銅を、置いていた。天秤が、ゆっくりと、釣り合うまで。釣り合ったところで、紙の上の当帰を、土瓶の中に、移す。次に、升麻を、一・六グラム。次に、紫根を、二・四グラム。次に、芍薬を、二・四グラム。次に、牡蛎を、三・二グラム。次に、甘草を、〇・八グラム。次に、川芎を、二・四グラム。次に、黄耆を、一・六グラム。次に、忍冬を、一・二グラム。最後に、大黄を、一・二グラム。
十味の生薬が、土瓶の中で、ひとつに、なった。
書物の中の数字が、毎朝、自分の手の動きとして、土瓶の中に、降りてきていた。当帰、升麻、紫根、芍薬、牡蛎、甘草、川芎、黄耆、忍冬、大黄——十味の名前を、自分は、もう、書物を見なくても、順番どおりに、量れるようになっていた。手が、書物の処方を、覚えてしまっていた。書物の中の知識が、手の動きとして、自分の体の中に、刻まれていく日々が、いつしか、始まっていた。
◇ ◇ ◇
土瓶に、水を、六百ccほど、注いだ。
これも、書物のご指示どおりの分量だった。水の量を、計量カップで、確かめた。六百ccの水が、十味の生薬と一緒に、土瓶の中で、ひとつに、収まった。蓋をして、火にかけた。最初は、強めの火で、湯を沸かす。湯が沸いてきたら、火を、弱める。あとは、ゆっくりと、煎じていく。水が、半量になるまで——つまり、三百ccに、煮詰まるまで。
煎じている間、台所の中は、独特の匂いに、満たされていった。
十味の生薬が、湯の中で、それぞれの成分を、ゆっくりと、解き放っていく。紫根の、深い色。当帰の、甘い匂い。牡蛎の、海の気配。それらが、混じり合って、台所の空気を、染めていった。土瓶の蓋の隙間から、湯気が、立ち上る。台所の小さな明かりの下で、その湯気だけが、生きているように、ゆらいでいた。自分は、ただ、土瓶のそばに、立っていた。煎じる時間というのは、待つ時間でもあった。
水が、半量になったところで、火を止めた。
蓋を取って、土瓶の中を、覗いた。深い色の、煎じ薬が、出来上がっていた。それを、こぼさないように、丁寧に、魔法瓶に、移した。一日三回に分けて、妻が、服用する分量。魔法瓶の中で、煎じ薬は、温かいまま、保たれる。蓋を、しっかりと、閉めた。台所の机の上に、その魔法瓶が、一本、静かに、座を、定めていた。書物の中の知識が、紙の束となり、天秤の上の数字となり、土瓶の中の湯気となって、最後に、魔法瓶一本の温かさへと、形を変えていた。
◇ ◇ ◇
魔法瓶を、抱えて、自分は、車に乗り込んだ。
外は、まだ、暗かった。空の縁が、わずかに、白み始めていたか、それとも、まだ、夜の名残の方が強かったか。それも、もう、覚えていない。当時の自分の車を、思い出そうとしても、車種までは、はっきりと浮かんでこない。ただ、その車に乗り込んで、運転席のシートに、魔法瓶を、しっかりと、立てて固定したことだけは、覚えている。倒れて、こぼれては、ならなかった。冷めても、ならなかった。妻のための、一日分の薬が、その魔法瓶の中に、収まっていた。
夜明け前の道は、静かだった。
多摩の家から、別の大きな病院までの道を、毎朝、走った。道の途中で、空の色が、少しずつ、変わっていく。完全に夜であった空が、わずかに、青を含み始める。その青が、徐々に、明るんでくる。けれども、街はまだ、目を覚ましていなかった。すれ違う車も、ほとんど、なかった。信号だけが、几帳面に、赤と青を、繰り返していた。自分は、ハンドルを、両手で、しっかりと、握っていた。助手席の方角に置いた魔法瓶が、車の揺れに合わせて、ときどき、わずかに、揺れた。
◇ ◇ ◇
病院に着くと、自分は、一階の外来に、向かった。
早朝の病院は、しんとしていた。外来の入口は、まだ、患者を受け付ける時刻ではなかった。けれども、自分は、その一階の外来の方へと、足を運んだ。なぜなら——妻が、毎日、そこで、自分を待っていてくれていたから。
電気は、まだ、点いていなかった。
朝のごく早い時間。外来の待合は、まだ、誰の手も、入っていない。窓から、わずかに射し込み始めた朝の光だけが、長椅子の上に、淡く、落ちていた。その薄暗い長椅子の、一番手前の場所に、妻が、一人で、座っていた。寝間着の上に、薄手の上着を、羽織って。両手を、膝の上に、揃えて。誰も、いない、暗い外来の中で、妻は、自分を、待っていた。
妻の姿を、自分は、今でも、覚えている。
暗い待合の中で、ひとり、静かに、座っておられた、その姿。物音を立てないように、たぶん、病室から、そっと、抜け出してきたのだろう。自分が、魔法瓶を持って、夜明けの中を、病院に向かっているのを、知っていて。その自分を、暗い外来の長椅子で、毎朝、待っていてくれた。何時頃から、待っていたかは、自分には、分からない。聞いたか、聞かなかったかも、もう、覚えていない。ただ、自分が、外来の入口を入った時、妻は、いつも、もう、そこに、座っていた。
自分は、妻の隣に、座って、魔法瓶を、渡した。
「煎じてきたよ」というような、短い言葉を、申し上げたはずだ。妻は、頷いて、「ありがとう」と、短く、お礼を、いった。それだけだった。それ以上の言葉は、暗い外来の中で、二人とも、必要としなかった。妻は、魔法瓶を、両手で、しっかりと、抱えた。自分は、その手が、温かい魔法瓶を、確かに、抱き取ったのを、見届けた。妻は、立ち上がって、病室の方へと、戻っていった。自分は、その後ろ姿を、しばらく、見送っていた。
◇ ◇ ◇
病院を出て、自分は、また、車に乗り込んだ。
外は、もう、すっかり、明るくなり始めていた。来た道を、今度は、家に向かって、戻っていく。同じ朝の中で、二度目の道。空の色は、行きと帰りとで、ずいぶんと、違っていた。行きは、夜の名残の中だった。帰りは、もう、朝の中だった。同じ道を、同じ車で、同じ自分が、走っているのに、空が、こんなに違う——その奇妙さを、自分は、ハンドルを握りながら、ぼんやりと、思っていた。
家に戻ると、健慈が、起き出していた。
小さな健慈の朝の支度を、整えた。着替えさせ、何か朝の食事を、とった。預け先まで、連れていった。一度、家の玄関を、もう一度、くぐって、今度は、自分の出勤の支度を、整えた。同じ朝の中に、家の玄関を、二度、くぐる。一度目は、煎じ薬を持って、家を出る時。二度目は、健慈の手を引いて、家を出る時。三度目もあった——健慈を預けて、家に戻り、自分の鞄を持って、もう一度、家を出る時。
そして、いつもの通勤の道を、会社へと、向かった。
満員の電車の中で、自分は、片手で、つり革を握りながら、別のもう一つの手は、内ポケットの中の、ノートを、確かめていた。ノートには、書店通いで集めてきた、いくつもの治療法のメモが、書き溜められていた。会社に着けば、また、いつもの仕事が、待っていた。中近東部の伝票、輸出計画の数字、海外からの照会の電話。それらをこなしながら、昼休みには、また、書店に向かった。書物の中の、別の活路を、探しに。
◇ ◇ ◇
自分の毎日は、いつしか、三つの顔を、持っていた。
夜明け前の、台所の顔。早朝の、暗い外来の顔。そして、昼間の、会社と書店の顔。家に戻れば、健慈を寝かしつけ、夜にはまた、ノートを開いて、明日の調合の準備をする。寝るのは、何時頃だっただろう。十時か、十一時か。それから、数時間眠って、また、夜明け前の台所に、立つ。その繰り返しが、いつしか、自分の毎日の、当たり前の輪郭に、なっていた。
疲れた、と思う暇は、なかった。
疲れている時間も、辛いと感じている時間も、その時の自分には、なかった。あったのは、ただ、夜明けの台所の時間。土瓶の湯気の時間。夜明けの道の時間。暗い外来の時間。妻の手に、魔法瓶を渡す時間。同じ朝の中の、二度の家の玄関。それらの時間が、ひとつずつ、毎日、繰り返されていった。
◇ ◇ ◇
あの日々の妻のお姿を、当直の看護婦さん方が、見ておられたことを、自分が知るのは、ずっと、後のことになる。
電気もまだ点いていない暗い外来で、毎朝、ひとり、若い夫を待っている若い妻——その姿を、夜勤明けの看護婦さん方は、ずっと、見ていた。そして、それを、赤ひげ先生に、告げてくださっていた。先生は、そのお話を、お聞きになりながら、何を、思っておられたのか。それを、自分が、はっきりと知ることになるのは、もっと、ずっと、後のことになる。けれども、その時の自分は、まだ、何も、知らなかった。ただ、夜明け前の台所に立ち、土瓶の湯気を見守り、魔法瓶を抱えて、暗い外来に、毎朝、向かった。それだけだった。
書物の中の知識が、紙の束となり、天秤の上の数字となり、土瓶の中の湯気となって、最後に、暗い外来の妻の手に、届けられていた。
それを、誰かが、見ていてくださった。それを知るのは、ずっと後のことになるが、見ていてくださったまなざしは、その時から、すでに、若い夫婦のそばに、あった。けれども、その話は、また、別の話になる。
(つづく) R080521

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