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2026年5月16日土曜日

◆ 薩摩長州が欧米列強の強さを知るきっかけ ◆ 『かけがえのない国 誇り高き日本文明』武田邦彦著 MdN出版(R05年)より

◆ 薩摩長州が欧米列強の強さを知るきっかけ ◆ 清を相手にした1840年の「アヘン戦争」で、イギリス軍は大勝利を収めていました。3回ほどの海戦で、清軍の戦死者2000人に対して、イギリス軍は7、8人という圧倒的な結果でした。地方政府に過ぎない薩摩藩を相手とする戦争などは推して知るべしでした。 実際、戦力においては薩摩藩と大英帝国艦隊では比較にならず、大砲の飛距離にも命中精度にも段違いの差がありました。 しかし、薩摩藩軍は強かったのです。砲撃を受けた鹿児島の街には損害がありましたが、藩主や住民の避難はほぽ完了しており、人的被害は少ないものでした。イギリス議会においては翌年1864年、鹿児島砲撃は一般市民を対象とした不当な戦闘行為であるとして問題となり、時のヴィクトリア女王が遺憾の意を表しています。 薩摩藩軍は、大砲の射程は短いものの効率的な砲台の準備の下、砲撃を繰り返しました。その結果、薩摩側の被害も大きいものでしたが、イギリス側の被害のほうが大きく、指揮官を中心に多くの戦死者を出しました。 この結果は、イギリス側のみならず当時の世界を驚かせました。薩英戦争を経て、イギリスと薩摩藩は双方の関係を見直すこととなります。 幕藩体制は封建制度です。封建制度とは土地の支配権を分与することによって主従関係を形成するという制度であり、日本では、天皇から征夷大将軍に任命された徳川将軍が諸藩を統治するという形をとっていました。つまり、薩摩藩は領地統治において独立している状態です。 イギリスは薩摩藩を評価し、中央の江戸幕府よりも緊密な関係づくりを図りました。 西郷隆盛が薩摩藩総大将として江戸に上り、幕臣.勝海舟との間で江戸城の無血開城を取り決めた偉業の背景にはこうした経緯があります。 四国艦隊下関砲撃事件では長州藩が、薩英戦争では薩摩藩が、欧米列強と直接相対しました。これによって長州・薩摩の両藩が国際情勢のリアリズムを中央の徳川幕府よりもはるかに深く知ることになり、明治維新を牽引していくことになるのです。 『かけがえのない国 誇り高き日本文明』武田邦彦著 MdN出版(R05年)より R080516

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