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2026年5月16日土曜日

第四章・覚醒の時代 連載第六十九話 説明のつかない不安

第四章・覚醒の時代 連載第六十九話 説明のつかない不安
第 四 章 ・ 覚 醒 の 時 代
第 六 十 九 話

説明のつかない不安

― 二 度 目 の 人 間 ド ッ ク 、 そ し て ―

術後の半年から一年の間、家には、確かな平穏が戻ってきていた。

妻は、母として、日常を取り戻していた。健慈は、少しずつ、歩き始めていた。湯船の中の二人の笑い声、夕食のちゃぶ台の前の三人の風景、休みの日の散歩の道——そういう、ありふれた日常の風景が、家の中に、もう一度、根を下ろしていた。妻の通っている病院での定期検診も、検査の数値は、すべて問題ない、と言われていた。担当医のお言葉も、その都度、安心できるものだった。

それでも、何か、自分の中で、説明のつかない不安が残っていた。

その不安の正体は、若い自分には、分からなかった。検診の結果は良好と言われている。妻は、健慈を抱き上げる時に、痛みを訴えるようなこともなくなっていた。表面上、何も問題はない、はずだった。それでも、自分の中の何かが、その「問題ない」という言葉を、完全には信じきれずにいた。それが何だったのかは、半世紀近く経った今も、はっきりとは言えない。

ある日、自分は、妻に、もう一度、人間ドックを受けようと言った。

「念のため」——という言葉が、自分の口から、ごく自然に出てきた。妻は、特に渋ることもなく、応じてくれた。受診先は、最初に二人で行った施設とは別の、市内のもう一つの医療機関にした。なぜ、別の施設にしたのか——今となっては、その判断の根拠も、よく覚えていない。ただ、念のため、別の目で、もう一度見てもらおう、という気持ちが、自分の中にあった。それも、説明のつかない不安の、一つの形だったのかもしれない。

◇ ◇ ◇

人間ドック当日の朝、自分は、妻と一緒に、家を出た。

最初の人間ドックの時のことが、自分の中で、繰り返し、頭をよぎっていた。あの時も、二人で家を出た。そして、結果説明の部屋で、医師の指が、ある一点で止まった——「奥様の胸に、しこりが認められます」と告げられた、あの場面。あれから、一年と少しが経っていた。あの時の若い自分と、今の自分とでは、もう、立っている場所が違っていた。あの「悪性」の電話の朝のことが、自分の中に、深く刻まれていた。今度は、妻を、一人にはしない——その誓いが、その朝、自分の足取りを支えていた。

受付を済ませ、それぞれの検査室に分かれた。

血液検査、心電図、レントゲン、問診——一つずつ、淡々と進んでいった。妻のほうが、検査の項目が多かった。乳房の手術の経過を見るための検査が、追加されていた。自分は、自分の検査がすべて終わった後、待合室で、妻が出てくるのを待っていた。最初の人間ドックの日と、ほとんど同じ風景だった。窓の外の光、廊下を歩く人の足音、診察を待つ人々の顔——ただ、季節だけが、違っていた。

結果説明の部屋に、二人で呼ばれた。

担当の医師は、妻のカルテと、いくつかのレントゲン写真を、机の上に並べておられた。型どおりの説明が、しばらく続いた。血液の数値、心電図、ほかの項目——一つずつ、医師の指が、項目を辿っていった。数値は、おおむね、問題なかった。乳房の手術の傷も、経過は良好と、書かれていた。自分は、その説明を、半分、安心しながら聞いていた。一度目の時のような厳しい指摘は、なさそうだった——その時、自分は、そう思っていた。

医師の指が、ある一点で、止まった。

それは、胸部のレントゲン写真だった。医師は、その白い紙を、机の上で、自分たちのほうに、向けて置き直された。それから、写真の中の、ある場所を、指で示された。「肺に、影があります」と、医師は、静かにおっしゃった。

医師の指の先には、確かに、何か、白っぽい影のようなものが、写っていた。

最初の人間ドックの時に、医師の指が、しこりの場所を示されたあの瞬間と、ほとんど同じ角度の指が、もう一度、机の上に置かれていた。一年と少し前の、あの場面が、自分の目の前で、もう一度、形を変えて立ち上がっていた。「精密検査が、必要です」と、医師は、続けられた。「専門医療機関で、詳しく調べてもらってください」——医師の言葉は、その種の場面の医師としての、ごく標準的な口調だった。標準的な口調であることが、若い自分には、かえって、重く感じられた。

妻は、隣の席で、姿勢を崩さず、医師の説明をじっと聞いていた。

最初の人間ドックの日と、同じ姿勢だった。最初の時、妻は、結果説明の部屋を出た後、廊下で立ち止まって、「健慈君が大きくなるまで、生きなければいけませんね」と、ぽつりと言った。その同じ廊下を、二人で、もう一度、歩こうとしていた。今回は、妻の隣に、自分がいた。「悪性」の電話の朝の、あの後悔は、繰り返さなかった。妻は、一人ではなかった。それだけが、若い自分に、残されていた、わずかな救いだった。

◇ ◇ ◇

結果説明の部屋を出て、廊下を歩きながら、自分の中で、ある一つのことが、ゆっくりと立ち上がっていた。

説明のつかなかった不安——あれは、何だったのか。検診の結果は良好と言われ続けてきた。担当医のお言葉も、その都度、安心できるものだった。それでも、自分の中の何かが、それを完全には信じきれずにいた。「念のため」という言葉が、口から出た時——その言葉の奥には、自分でも気づいていなかった、もう一つの感覚があった。

牧先生のオフコンが描き出していた、あのグラフの線。

下方に折れ曲がっていた、あの線。先生が、ご自身の指でなぞりながら、「奥様の健康が、いずれ、きわめて厳しい状態になります」とおっしゃった、あの瞬間。最初の人間ドックで、しこりが見つかった。手術が行われた。担当医は、「脇のリンパには、転移は認められませんでした」とおっしゃった。自分は、そこで、ほっと胸を撫で下ろした。あのグラフの下方に折れ曲がった線は、しこりの発見とその切除で、すでに過ぎ去ったもの——若い自分は、いつの間にか、そう思い込んでいた。

そう思い込みたかった、というほうが、正確かもしれない。

グラフの線は、月の単位で、ある時期から、深く落ち込んでいた。その線が、たった一つの「しこり」だけで、すべて説明し尽くされていたのか——若い自分は、その問いを、自分自身に向けて、十分には立てていなかった。あの数か月の平穏の中で、自分は、一度骨で知ったはずの順序を、半分、忘れかけていた。担当医のお言葉が、若い自分の中で、骨の知を、上から塗り替えていた。

そして、二度目の人間ドックの結果説明の部屋で、机上の理論は、再び、立ち上がってきた。

第三章の終わりで、自分は、机上の理論が、生身の人間の体を支配する——その重い順序を、骨で知った。骨で知った、と思っていた。しかし、骨で知った、ということと、その知をもって生きる、ということの間には、まだ、長い距離があった。覚醒は、一度の電話と、一度の手術と、一度の安堵では、まだ訪れていなかった。第六十七話の章結めで書いたその一行が、ここで、新しい形で、もう一度、自分の前に立ち上がっていた。

◇ ◇ ◇

家に帰る道で、二人は、あまり、話さなかった。

話すべきことは、いくつもあったはずだった。これからのこと、精密検査のこと、専門医療機関のこと、健慈のこと、両親のこと——どれも、口にしなければならない種類のことだった。それでも、その日の帰り道、二人は、そういう話を、ほとんどしなかった。沈黙の中で、お互いの足音だけが、聞こえていた。妻が、何を考えていたのかは、自分には、分からなかった。自分が、何を考えていたのかも、半世紀近く経った今、はっきりと言葉にすることは、難しい。

ただ、説明のつかなかった不安は、不安のままでは、終わらなかった。

その不安には、形が、与えられた。形が与えられた以上、もう、不安と呼んでいたものは、不安ではなくなっていた。それは、別の名前を持つもの——専門医療機関で、近いうちに、はっきりとした名前を与えられることになる、別のものへと、変わり始めていた。家に着いた時、玄関先で、健慈が、こちらを向いて、笑った。湯船の湯気の向こうで、妻が支えていた、あの小さな身体。その笑顔の前で、自分は、その日の人間ドックの話を、まだ、しなかった。

第六十九話の朝の、結果説明の部屋の白い紙の上の影を、自分は、ここに、静かに置いておく。

ここから先のことは、また、別の話になる。覚醒の手前の、もう一段、深い眠りの底を、若い夫婦は、ここから、二人で、歩いていくことになる。

(つづく) R080516

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