◆ 世界を唸らせた、日本の造船技術 ◆
「蒸気船」という当時最先端の交通機関についても、当時の日本人は旺盛な好奇心と知識欲を見せました。
江戸幕府が西洋の中で唯一外交を保持していたオランダが1855年、スームビング号という蒸気船を寄贈します。スームビング号は後に軍艦・観光丸として活躍することとなります。
1853年のペリー来航で軍用蒸気船を目の当たりにしたそのわずか数年後には、長崎海軍伝習所で勝海舟や佐賀藩士を中心に蒸気船に関係する技術の習得が始められていました。
燃料となる石炭の扱いなど細かなことも含め、初めて手にした鉄製のエ具を握り、機関の細かな仕組みや操舵技術、修理法を学んでいったのです。
当時オランダから長崎海軍伝習所に派遣されていた技官カッテンディーケは「普段は浴衣のような服に刀を差して、夕方になると甲板から立小便をするような連中が実に熱心に、しかもしつかり技術を身に付けていく」と驚きました。
伝習所学生は勝海舟を船長としてスームビング号に乗り組み、蒸気船を回航、ヨーロッパ人の手を借りることなく操縦して江戸に到達しました。カッテンディーケは「とても信じられないことだ」と書いています。
長崎海軍伝習所の伝習取締りだった幕臣の永井尚志は、軍艦の操舵ができるだけでは不十分だと考え、絶え間なく起こる船の破損や修理に対応するための造船所の必要を幕府に訴えます。
そこで1857年に生まれたのが「長崎造船所」の前身、日本初の造船所とも言える「長崎溶鉄所」でした。
当時の日本は、工具はもちろん補助的な器具もほとんど持っていない状態でした。
必要品は逐一、オランダに発注して入手しなければなりません。ならば、必要品一切を製作できる造船所をつくってしまおうという発想で、まさに「自分の国のことは自分の国でやる」という思想そのものでした。「長崎溶鉄所」は日本初の重工業の誕生ということでもありました。
造船所の周囲には、細かい部品を供給する小規模の製作工場が建つようになりました。「優秀な中小企業の集合体」という日本の産業の伝統は、幕末に始まっているのです。
当時、造船所を見学したイギリスの軍医レニーは、「オランダ人の管理下にあって機械類はすべてアムステルダム製であった。所内の自由見学を許された我々は隅々まで見て回ったが、なかなかの広さであった。そしてこの世界の果てに、日本の労働者が船舶用蒸気機関の製造に関する処々の仕事に従事しているありさまを見たことは確かに驚異であった」と述べています。
この造船所はやがて三菱重工に引き継がれ、戦艦「武蔵」などを建造することになります。
『かけがえのない国 誇り高き日本文明』武田邦彦著 MdN出版(R05年)より R080514

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