何だかんだ言っても、やはりみんな幸福な生活を望んでいるのではないでしょうか。そのために、日々生活し、活動し、出逢いなどなど行っています。日常の生活で感じた事、実際に経験したことなど、徒然のままに、記録してみます。
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2025年2月19日水曜日
2025年2月18日火曜日
仏教とキリスト教は、同じことを示している
仏教とキリスト教は、同じことを示している
お釈迦様は、天国とは関係なくて人生の中で幸福、悟りを見つけなさいとこう言っているわけですが、イエスキリストはちょっと宗教的なので、あなたは天国に行けますよという言い方で同じことをおっしゃっているのではないかと思うわけですね。
このように考えますと、宗教的な幸せということもあるわけです。ただ、私がちょっとここで苦言を呈しますと、お釈迦様とイエス様が言われた「幸せとは何か」「幸福とは何か」というものが2000年のときを経てもまだ人の心に残っているわけです。それから、おそらくお釈迦様、イエス様も、その後のお弟子さんの様子を見ると、大変に神様に近い人だったこともわかるので、これを直接利用させていただけることは大変すばらしい。
しかし、その後の人が書いたものは、僕はあまり当てにできないと思うんですよ。偉いお坊さんが書かれたものも読むと、確かにそうだなとは思うんですが、それがお釈迦様とちょっとニュアンスが違いますと、僕はお釈迦様がおっしゃったことのニュアンスを変えるだけの力が、後のお坊さんにあったのかなと思ったりしますし、キリスト教の人には大変恐縮なんですが、私はイエス様が言われたことは、もう神様に近い、あるいは神様かもしれませんので理解できなくてもそうだなと思うべきだろうなと感じているわけですね。しかし「ローマ法王が〇〇と言われた」と言われても、ローマ法王って僕が読んだイエス様が聖書の中で語られている「いけないこと」をされているんじゃないかという気がするんですよ。権威をつけて、良いところに住んで…つてね。
ですからそのような人に「幸福はこうだ」と言われても、あなたがそう言うんだったら、私はイエスキリストがおっしゃられている聖書に書かれたことをそのまま受け容れた方が幸福だと感じられるという感じです。このお釈迦様とイエス様がおっしゃられたことというのは、私がここで展開しようとしている「幸福とは何か」ということの中に入れさせていただきたいと思っているんです。つまり、これもある意味での科学的根拠なんですね。
例えば、動物がこうするとか、まぁ、男性と女性がこうだとか、それからお釈迦様とイエス様はこう言われたとかは、いずれも私たちが幸福と考えるものを探求する上での一っの参考資料と言ったら怒られちゃうんですけどね。まぁそういうものだということです。最終的には何というか、それを我々は咀哨しなければいけませんね。
『幸福とは何か』武田邦彦(武田邦彦先生音声ブログKindle版大島久幸氏編 より)(雲雀電子出版) 20250218
2025年2月17日月曜日
キリスト教の場合
キリスト教の場合
これに対するイエスキリストですけれども、これはやはり山上の垂訓でしょう。山上の垂訓という聖書で有名な一場面があるわけです。イエスが群衆を引き連れて山の上に昇って、山の上でみんなに語ったという。非常に有名な場面があるんですが、ここでこう言っています。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言うときには、あなたがたは、さいわいである。
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたよリ前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」
このように言っておられるわけです。これは二つに分かれますね。
―つは、「現在不幸な人、貧しい人、悲しんでいる人は、そのうち良くなるよ」と言っているわけです。これは一切皆苦、つまリ人生が思うようにならないから、貧しかったり、悲しかったりすることがあるんだけれども、諸行無常、やがて良くなるよと言っています。
それから、「もともと心が清かったリ、憐れみ深かったりする人は報われるでしょうね」と言っています。これは無理やり言えば、そういう哀れみ深いとか心は清いということが哀れみを受けたり神に近かったりする因果関係があるということを言っているわけですね。
言い方は違うけれども、イエスキリストがおっしゃっていることと、お釈迦様がイエスキリストの500年前に言われたこととほぼ同じであるということです。
『幸福とは何か』武田邦彦(武田邦彦先生音声ブログKindle版大島久幸氏編 より)(雲雀電子出版) 20250217
2025年2月16日日曜日
二つの幸福 仏教の場合
二つの幸福 仏教の場合
ムハンマドは紀元700年ですから少し最近なので、この2人がどういうものを幸福かと思ったかというのを見ますと、幸福というのは二つあると言っています。
―つは、誰かが言ったものをそのまま正しい、真実だと思って、それを信じ込むこと。もうーつは科学的根拠に基づいて自分で幸福を考える。この二つですね。
自分で幸福とは何かを考えるときでもお釈迦様とイエスキリストを参考にしても別に構わないわけです。お釈迦様とイエスキリストは人間じゃないか、もしくは人間じゃないに近く偉いということで、神様に近いということなので、この2人を取りますと、お釈迦様がまず何を言っているかというと、一切皆苦、「いやあ人生とは思うに通り行かないよ」と……思う通りに行かないということを理解するんだというわけですね。本当に思うといけませんね.. . .。
「自分は一生懸命働いたのに、なんでここで俺が切られるの?」って、「あいつよリか俺の方が働くのに、なんであいつの方が先に出世するの?」など、山ほどありますよ。
女の人だったら、「これだけ一生懸命家庭のことをやっているのに、旦那はなんだ!」と文句もありますよね。
一切皆苦なんですよ。
ですから一切皆苦、諸行無常、諸法無我、これはお釈迦様が長い修行を通じて直感でわかったものであって、科学的に論理性があったかどうかわかりませんが、まぁ多少はあったんでしょうね。
『幸福とは何か』武田邦彦(武田邦彦先生音声ブログKindle版大島久幸氏編 より)(雲雀電子出版) 20250216
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