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2026年5月12日火曜日

第三章・世界の時代 連載第六十五話 新婚旅行

第三章・世界の時代 連載第六十五話 新婚旅行
第 三 章 ・ 世 界 の 時 代
第 六 十 五 話

新婚旅行

― ボ ラ ボ ラ の サ ン ゴ 礁 と 、 ヌ ー メ ア の 笑 顔 ―

結婚式の会場は、父の勧めで、東電関連の施設を借りることになった。

当時、日産自動車と東京電力の間に、何らかの取引のような関係があったのだろう。父が、自分の知らないところで話を進めてくれて、ある日、「式の場所は、東電の施設を借りられる」と教えてくれた。両家の親族の招待にも、ちょうどよい広さの会場だった。父の段取りに、自分は素直に従った。妻となる鈴木洋子も、同じく素直に応じた。式の準備は、両親と、両家の親族の差配で、つつがなく進んでいった。

東電の施設を借りる、というその段取りを聞いた時、自分の中で、ある古い記憶が、ふっと立ち上がってきた。

そういえば、自分は、若い頃に、父の勧めで東京電力の入社試験を受けたことがあった。大学の最終学年の頃である。父は、息子の進路について、いくつかの選択肢を示してくれていた。日産自動車も、その一つだった。東京電力も、その一つだった。父の勧めるままに、自分は、両方の試験を受けに行った。

東電の試験会場で、英語の問題が出た。

問題用紙を開いてみると、自分にとっては、それほど難しい問題ではなかった。設問を読み、文章を読み、答えを書いていく。手が動くままに、自分は問題を進めていった。最後の設問まで終わって、もう一度全体を見直しても、修正すべき箇所は、ほとんど見当たらなかった。完璧に解けた、というのが、自分の中の感覚だった。

それで、自分は、試験会場を出た。

他の受験者より、三十分以上早かった、らしい。当時の自分には、そういう感覚はなかった。試験は、解き終わったら出るものだ——という、ごく単純な理屈で、自分は席を立った。会場の外に出て、深呼吸をして、駅の方角に歩き始めた。それで、その日の試験は、自分の中では終わっていた。

◇ ◇ ◇

後日、東電の人事部から、父に問い合わせがあったらしい。

「お子さんは、なぜ試験を切り上げて、三十分以上早く出て行かれたのでしょうか」——人事部の担当の方は、そう尋ねてきたのだという。父は、自分にその話を伝える時、少し困ったような顔をしていた。父からそれを聞いた時の、自分自身の顔を、自分はもう思い出せない。たぶん、不思議そうな顔をしていたのだろうと思う。完璧に解けたから出た——それ以上でもそれ以下でもない、自分の中の単純な動機を、説明する言葉が、当時の自分にはなかった。

英語の試験の成績は、上位数名に入っていたらしい。

「もったいない」と、人事部の方は言ったという。試験成績だけ見れば、もう少し時間をかけて、他の科目も丁寧に取り組めば、合格の可能性は十分にあった——そういう含みのある言葉だった。父は、それを息子に伝えた。自分は、ふうん、と思っただけだった。東電に入る道は、その時の自分の選択の中では、もう自然と外れていた。日産自動車を選んだ自分の進路は、その後、村山工場の二年と、本社の数年と、そして輸出部門での出会いを通って、今、結婚式の段取りまで来ていた。

その自分が、半世紀の伏線を経て、結婚式の場所として、東電関連の施設を借りることになっていた。

若い日の自分が三十分早く出て行ってしまった、あの試験会場の組織と、自分の人生は、回り回って、結婚式という形で、もう一度重なり合った。これを、当時の自分は、あまり深く意識していなかった。半世紀経って、振り返ってみると、人生というものは、こういう不思議な巡り合わせを、当人の知らないところで、静かに編み続けているらしい。

式の当日、東電関連の施設の客間で、自分は、紋付き袴を身につけた。

隣に立った妻は、白無垢から色直しの華やかな着物に、装いを変えていった。両家の親族が、それぞれの席に座り、料理が運ばれ、祝いの言葉が交わされた。父の顔も、母の顔も、穏やかだった。妻の側のご両親も、よい表情をしておられた。式の細部は、もう記憶の彼方にある。ただ、その日の客間の空気が、温かく、満ち足りていた——それだけが、半世紀経った今も、自分の中に、しっかりと残っている。

◇ ◇ ◇

新婚旅行は、タヒチのボラボラ島と決まっていた。

当時の日本人の新婚夫婦にとって、南太平洋の島々は、まだそれほど一般的な行き先ではなかったかもしれない。ハワイか、グアムか、ヨーロッパか——典型的な選択肢の中で、ボラボラを選ぶ夫婦は、それほど多くなかったと思う。誰の発意で、ボラボラに決まったのか、もう記憶は曖昧である。極東部で南太平洋の離島を担当していた妻にとって、太平洋の島々は、机の上の遠い販売店の地図だった——その机の地図が、新婚旅行で、足の下の現実の砂浜に変わる、というのは、面白い符合だった。

飛行機は、長い時間をかけて、太平洋を渡った。

機内の窓から見下ろす海は、日本近海とは、まったく違う色をしていた。深い青が、限りなく広がっている。雲の影が、海面に落ちて、ゆっくり流れていく。妻は、窓に額を近づけて、その色をじっと見ていた。彼女の横顔を、自分は隣の席から見ていた。フロアの仕事中の真っ直ぐな立ち姿でもなく、合コンの夜の柔らかい笑顔でもなく、休日の山行の軽やかな足取りでもない、新婚旅行の機内の、また別の彼女の横顔だった。

ヌーメアで、一度、飛行機を乗り換えた。

ニューカレドニアの首都であるヌーメアは、ボラボラへの経由地だった。乗り継ぎの待ち時間に、自分たちは、市内の市場を散策した。フランス領の名残のある建物の並ぶ通りを、二人で歩いた。市場には、現地の人たちが営む露店が、たくさん並んでいた。野菜、果物、魚、そして、観光客向けの土産物。色とりどりの貝殻を使った首飾りや、織物や、木彫りの小物が、店先に並んでいた。

◇ ◇ ◇

一軒の露店で、現地のおばさんが、貝殻の首飾りを売っていた。

体格のしっかりした、笑顔の温かい、地元のおばさんだった。妻が、その首飾りの一つに目を止めて、手に取った。色合いの優しい、繊細な作りの首飾りだった。値段を尋ね、少しのやり取りがあって、自分たちは、その首飾りを買うことにした。買い物が決まると、おばさんは、目を細くして大きく笑った。歯の白さが、笑顔の中で印象に残った。

記念に、写真を撮らせてもらえないか、と頼んだ。

通じる言葉は、片言だった。それでも、写真、という言葉と、こちらの身振りで、おばさんはすぐに理解してくれた。喜んで応じてくれた。市場の通りすがりの方に、シャッターを押してもらって、妻と、おばさんと、自分の三人で、店先に並んで写真を撮った。三人とも、満面の笑みだった。誰一人、構えた笑顔ではなかった。買い物の喜びと、見知らぬ国の市場の出会いと、新婚旅行の高揚と——それらが全部、その一枚の写真の中に、自然に収まっていた。

その写真は、後年、ある形で報われることになる。

新婚旅行を主催してくれた旅行会社が、新婚旅行のスナップ写真を募集していた。帰国してから、自分たちは、ヌーメアのおばさんと一緒に撮ったあの一枚を、応募作品として送ってみた。送ってからしばらくして、優勝の知らせが届いた。記念品として、時計の付いた立派な品が、自宅に届けられた。あの写真の笑顔が、選ぶ人たちの目に、何かを伝えたのだろうと思う。半世紀近く経った今でも、その写真は、家のどこかにあるはずである。探せば、必ず見つかるはずである。

あの笑顔は、新婚旅行の数日のうちで、最もよい瞬間の一つとして、二人の中に残った。

◇ ◇ ◇

ボラボラに着くと、世界が、まったく違う色をしていた。

サンゴ礁のラグーンの水は、透き通っていた。底の砂が、水を通して、はっきり見えた。色の濃いところと薄いところが、グラデーションになって、海面の下に広がっていた。空は、限りなく青かった。雲が、ぽつりぽつりと浮かんで、ゆっくり流れていた。風が、椰子の葉を揺らしていた。それだけの風景だった。それだけの風景が、二人を、ただ静かに包んでいた。

一日中、サンゴ礁の海で泳いだ。

マスクとシュノーケルをつけて、二人で海に潜った。海中には、想像を超える色の魚たちが泳いでいた。青、黄、赤、縞模様、斑点。形も、大きさも、それぞれの種類で違っていた。サンゴの森の間を、魚たちが、自分のペースで動いていた。妻の手を取って、海中で、魚たちのほうへ近づいていく。妻は、手の中で何度も握り返してきた。その握り返しの中に、彼女の感動が、伝わってきた。

カヌーで、ラグーンを漕いだ。

小さなカヌーに、二人で乗った。前と後ろに座って、それぞれパドルを握った。最初は、息が合わなかった。カヌーが、思った方向に進まなかった。しばらくすると、二人の漕ぎ方が、自然に合ってきた。妻が、前で漕いだ。自分が、後ろで方向を取った。ラグーンの上を、カヌーが滑るように進んでいく。波もなかった。風も、優しかった。二人だけで、ラグーンの真ん中まで漕ぎ出した。

真ん中で、しばらくパドルを止めて、空を見上げた。

青い空が、限りなく広がっていた。下を見ると、青い水が、限りなく深かった。カヌーは、空と水の間に、ふわりと浮いていた。その瞬間、自分の中で、何かが、ふっと軽くなっていた。村山に置いてきた言えなかった言葉も、本社のフロアで繰り返された言えない恋も、川崎の夜のヘッドライトの重みも——それらの一つ一つが、ボラボラのラグーンの上で、ゆっくりと薄らいでいく感覚があった。寂しさの底を一度通った若い男が、ようやく、太平洋の真ん中で、息を吐く場所を見つけた。

言葉のいらない、二人だけの数日だった。

◇ ◇ ◇

帰りの途中、どこかで、信じられないほどの夕日を見た。

どこで見たのか、もう、はっきり思い出せない。ボラボラのリゾートのテラスからだったのか。ヌーメアの空港の待合室からだったのか。あるいは、飛行機の窓からだったのか。記憶の中で、場所は、もう曖昧である。ただ、その夕日の色だけは、半世紀近く経った今でも、自分の中で、そのまま残っている。あの色は、これまで自分が見てきたどんな夕日とも、違っていた。

赤、橙、桃、紫、群青——空のすべての色が、同時に、燃えていた。

雲が、その色の波の中に、立体的に浮かんでいた。海も空も、夕日の光に溶けて、境目が消えていた。それは、美しい、という言葉では足りなかった。荘厳、と言っても足りなかった。おどろおどろしい、という言葉のほうが、近かった。神様か何かが、空のキャンバスに、自分の力の全部をぶつけて筆を走らせている——そういう種類の景色だった。自分は、息を止めて、その夕日を見ていた。隣で、妻も、同じように息を止めていた。

カメラを取り出して、その夕日を写真に収めた。

フィルムカメラの時代である。シャッターを押す手が、少し震えていた。撮ってからすぐに見られる時代ではなかったから、その瞬間の自分の手がうまく撮れていたかどうかは、帰国して現像してみるまで分からなかった。現像された写真には、夕日が、たしかに写っていた。しかし、現実に目で見ていたあの色には、フィルムは、半分も追いついていなかった。当然のことだったが、それでも、その不完全な写真は、二人の宝物の一枚になった。

今、その写真を見返しても、その時の本物の景色を形容する言葉が、自分には見つからない。

半世紀近く経って、自分の語彙は、若い頃よりは、それなりに豊かになっているはずである。それでも、あの夕日を形容できる言葉は、自分の中にない。たぶん、人間の言葉には、もともと、ああいう景色を写し取る力が、最初から備わっていないのだと思う。それは、写真という機械にも、絵画という技術にも、たぶん同じことなのだろう。本当に圧倒的なものは、人間のあらゆる表現の道具を、すり抜けていく。

あの夕日の景色は、思い出の彼方に沈んだ風景として、二人の中に、静かに残った。

◆ ◆ ◆

新婚旅行から帰ると、二人は、多摩の家に戻った。

出発前は、自分一人の家だった場所に、二人で帰ってきた。玄関の鍵を開ける時、妻が隣に立っている、というのが、まだ慣れない感覚だった。家の中の空気は、出発前と変わらなかった。しかし、二人が並んで玄関に立った瞬間から、その空気には、新しい色が混ざっていた。机の上のスタンプ台と判は、いつもと同じ場所にあった。ただ、それを見つめる自分の目の隣に、もう一つの目があった。

二人だけの食卓が、始まった。

朝、出勤前に、二人で朝食を取る。夜、帰ってきて、二人で夕食を取る。ごく普通の、新婚生活だった。そのごく普通の生活の重みを、自分は、毎日、噛みしめていた。一人で食べていた朝食、一人で帰っていた夜の家、一人で過ごしていた週末——それらの一つ一つが、二人の食卓に変わっていく。それが、奇跡のように感じられた時期だった。寂しさの底を一度通ってきた人間にとって、誰かと一緒に食卓を囲む、という当たり前の風景が、どれだけ深いものか——自分は、その重みを、骨で知っていた。

あのボラボラの数日間が、二人の中に、確かな光として残っていた。

ヌーメアのおばさんと一緒に映った、満面の笑みの写真。サンゴ礁のラグーンの上で漕いだカヌーの感触。空のすべての色が同時に燃えていた、あの夕日の景色。それらの記憶が、二人の生活の中に、静かな光として残っていた。日常の食卓の隅で、それらの光は、いつも、薄く差し込んでいた。それが、若い夫婦の最初の生活を、深いところで支えていた。

あの夕日の重さを、二人で受け取ったあの数日間が、その後の人生の長い道のりを、深いところで支えてくれた——そう、半世紀経った今、自分は思っている。

ただし、その光の数か月後に、二人を待っていた、もう一つの扉のことを、当時の自分は、まだ何も知らなかった。多摩の家の食卓の向かいに座る妻の中に、ある時から、小さな影が見えるようになっていた。それが何の影なのか、最初の頃は、自分にも、彼女自身にも、分からなかった。やがて、それは、ある検査の結果として、はっきりとした形で、二人の前に現れることになる。

その話は、次の話に書く。

(つづく) R080512

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