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2026年4月30日木曜日

あなたの持ち歌作ります

あなたの持ち歌作ります。一度お尋ねください。⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒ 新曲「命の季(とき)」「そらのはじまり」「そばがいい」「愛よ還れ」           「鎌倉妖怪盆祭り」「しづやしづ」          「昇り銀竜夢花火」「夢こねパン屋」         「はじめの一歩」……「バオバブの木の下で」⇒三原あみ作品の一部です。

花火とピッタリ!昇り銀竜夢花火⭐️

そらのはじまり

作詞:マヒルムラサキ 作詞編曲:三原あみ 歌唱:田口文恵 大切なパートナーを亡くした悲しみから立ち直る過程を表現したバラードです。 声量のある田口文恵の歌声にパワーをもらって頂けたらと思います。近日DAMしましたら 各カラオケ大会でも歌唱の挑戦に選曲していただければと思います。

心の歌をあなたに

命の季

作詞:広瀬ゆたか 作編曲:三原あみ 歌:小松伸久 母のふところである故郷を想い 歌った曲です。 歌詞を味わいつつ 歌ってください。

そばがいい(蕎麦/傍が好い)

そばがいい(蕎麦/傍が好い) 歌 小林幸子 作詞 美貴裕子 作曲 三原あみ 令和6年6月9日 けやきホールにて開催された、エターナルソング・コンテストにおいて、優秀賞受賞作品。 主宰 湯川れい子氏

歌詞 一 向う横町(よこちょ)のおそば屋さんに今日も来ました 爺さまと婆さま タペあんなに 喧嘩したのにそば屋に行くかに ついほろり おそばそばそば 手に手を取って 食べて笑って仲直り おそばっていいねぇ

二 ひとつ丼(どんぷり)すすった事も 思い出します 爺さまと婆さま 苦労七坂 おまえとふたり 登って下って 今がある おそばそばそば 身にしむ味よ わたし爺さまの側がいい おそばっていいなぁ

三 何がなくとも そばさえあれば うれし泣きする爺さまと婆さま おそばありゃこそ 元気でいれる 日本の味です 自慢です おそばそばそば 身体も軽く 若さメタポに最高よ おそばっていいねぇ

「愛よ還れ」

「愛よ還れ」 歌 小松伸久 作詞 滝沢まさとし 作曲・編曲 三原あみ 歌手の小松氏は盲目ですが、しっかりとした歌唱力が魅力です。

鎌倉妖怪盆祭り

鎌倉妖怪盆祭り 作詞作曲・制作 三原あみ

熱帯夜がまだまだ続きそうな この夏。 少しだけ涼しくなれるかもしれない?曲です。鎌倉の街は大好きですが洞窟が沢山あって ちょっと怖いなと思っていました。映画「鎌倉物語」が面白かったので 作ってみた曲です。

しづやしづ

しづやしづ 作詞 津田正道           作曲・編曲・歌・制作 三原あみ

昇り銀竜夢花火

昇り銀竜夢花火              作詞:滝沢まさとし   作曲:三原あみ

夢こねパン屋

夢こねパン屋 ミュージカルキッズKOBATO&デッカチャン 企画・制作・作曲:三原安美子       制作:吉川愛美

はじめの一歩

はじめの一歩〜君をのせて〜 はじめの一歩 Rising 君をのせて 作詞 丘野けいこ 作曲 三原安美子

ココア色の時間

ココア色の時間    作詞作曲 三原安美子

種の歌

種の歌 作詞 丘野けいこ 作曲 三原安美子

夜中のおひなさま

夜中のおひなさま 作詞作曲 三原安美子

ステゴミザウルス DNA

ステゴミザウルスDNA 作詞作曲 三原安美子

バオバブの木の下で

バオバブの木の下で

 作詞 進藤いつ子    作曲 三原安美子

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R080430(木)午前9時50分配信開始 【ニッポンジャーナル】丸山穂高×伊藤俊幸 最新ニュースを解説!

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【ルイーズが古巣相手に1号ソロ含む2安打1盗塁|試合ハイライト】マーリンズvsドジャース MLB2026シーズン 4.30

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R8 4/30百田尚樹・有本香のニュース生放送 あさ8時! 第829回

R8 4/30百田尚樹・有本香のニュース生放送 あさ8時! 第829回

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至誠の覚醒 連載 第五十二話「立川の渋滞」

至誠の覚醒 連載 第五十二話「立川の渋滞」
第 二 章 ・ 社 会 の 時 代
第 五 十 二 話

立川の渋滞

― チ ェ リ ー X 1 で 走 る 朝 ―

入社して最初の数か月は、工場の敷地内にあった独身寮で暮らしていた。

朝起きて、寮の食堂で簡単な朝食を取り、敷地内を歩いて自分の机に向かう。通勤というほどの通勤ではない。職場と寝床のあいだに、徒歩十数分の道があるだけだった。便利と言えば便利だったが、二十代の若い体には、何かが物足りなかった。

多磨塾で買った、チェリーX1がある。

家から通えば十五キロちょっとである。自宅は多摩市連光寺。村山工場までの道のりを、毎朝、自分の車で走る——そう決めて、ほどなく寮を出た。寮の便利さよりも、毎朝の十五キロのほうが、自分には性に合っていた。車を持つというのは、単に移動の手段を持つということではない。一日のうちに、自分だけの時間と空間を、両端に確保するということでもある。

◇ ◇ ◇

通勤のルートは、人によって違っていた。

普通に勧められるのは、国道二十号——甲州街道——を素直に北西へ走るルートである。広い道で、信号も整備されていて、地理に不慣れな者でも迷わない。多くの社員は、たぶんそちらを選んでいた。

自分は、近道を狙う癖があった。

家を出てから、まず多摩川沿いの道を北西へ向かう。川面を右手に見ながら、軽く下流から上流へとさかのぼっていく形である。朝の多摩川は、季節によって匂いが違った。夏は草いきれと水の匂い、秋は枯れ草と砂の匂い、冬は冷たく硬い空気の匂いだった。窓を少し開けて走ると、その朝の匂いが、運転席まで流れ込んでくる。

多摩川の道から、細い枝道に入る。

車一台がやっと通れる、地元の人しか使わないような道である。地図の上では裏道だが、走ってみれば近道だった。曲がりくねった細い道を抜け、二十号線の手前で一方通行に当たる。一方通行の細い道を慎重に進み、二十号を突っ切る。突っ切った先も、また車一台がやっと通れる道。住宅の軒先をかすめるようにして、北西へと進路を取り続ける。

東京女子体育大学の脇を通り抜ける。

朝の早い時間にも、若い学生の姿が校門の周辺に見えることがあった。こちらは仕事に向かう車、向こうは登校してくる学生。すれ違う一瞬の風景の中に、別の時間を生きる人たちの気配があった。立川病院を左手に見ながら、さらに北西へ。立川の市街に入る前の、最初の渋滞ポイントを、こうして避けていく。

立川には、混む分かれ道がいくつかあった。

最初の一本目を避けても、その先で待っているものがある。中央線の跨線橋を越えるあたりから、いよいよ本格的な渋滞に入る。この区間は、当時、毎朝の風物詩のような滞りだった。

◇ ◇ ◇

跨線橋を越えるあたりの渋滞は、今でも変わらない。

これは、五十年以上経った今、たまに地図を眺めながら、しみじみと思うことである。あの頃、自分のチェリーX1の前にも後ろにも、同じように朝のラッシュに巻き込まれた車が並んでいた。あれから半世紀、あの場所の渋滞は、形を変えながらも、似たような時間に、似たような長さで、同じ場所に居座り続けている。

町には、変わるものと変わらないものとがある。

店は変わる。看板は変わる。歩いている人の服装も、髪型も、持っているものも変わる。しかし、道路の交差の仕方と、線路の通り方と、それによって生まれる渋滞のポイントだけは、なかなか変わらない。土木のスケールで起こることは、人間の世代を一つ二つ越えても、同じところに留まっている。あの跨線橋の渋滞は、土木のスケールで動いているのである。

渋滞の中で、自分は何を考えていたのか。

正直に言えば、覚えていない。具体的に何を考えていたかは、もう思い出せない。たぶん、その日の仕事のことを考えていたのだろう。中近東向けの仕様変更の電話が今日も来るだろうか、CCRの先輩に顔を合わせずに済むだろうか、ユニット計画の係に頭を下げる用件はあるだろうか——そんな細々したことを、ハンドルを握りながら、ゆっくりと頭の中で並べていたのだと思う。

渋滞の時間は、無駄な時間ではなかった。

机に着いてから慌ててやることを、車の中で先に整理しておけば、その日の最初の三十分の動きが変わる。動かない車の中で考えるのは、なぜか、机の前で考えるより遠くまで届いた。たぶん、視線がフロントガラスの先に放たれていたからだろう。机の前では、視線はせいぜい一メートル先の紙に落ちている。視線の届く距離が、思考の届く距離を、知らないあいだに決めているのかもしれない。

◇ ◇ ◇

跨線橋の渋滞を抜けると、左手に立飛工場が見えてくる。

立川飛行機の工場である。戦前から続く由緒ある場所で、当時もまだ立派な操業が続いていた。航空機を作る工場と、自動車を作る工場とが、同じ多摩の北西の片隅に並んで存在している——町の歴史というものを、若い自分は、その風景の中に何となく感じていた。

砂川七番から、都道五十五号線に入る。

ここまで来れば、もう村山工場は近い。道は広くなり、流れも軽くなる。家を出てから一時間と少しか、二時間近くか——日によって所要時間は違ったが、跨線橋の渋滞を抜けたあとの最後の一区間は、いつも気持ちが少し軽くなる時間だった。

そして、村山工場の門が見えてくる。

門というよりも、敷地の入り口である。当時、村山工場の従業員は三千人ほどいたと記憶している。その半分以上が車で通勤するのだから、当然、敷地の周囲には巨大な駐車場が用意されていた。朝のラッシュの時間帯には、駐車場へ向かう車の列が、もう一段の小さな渋滞を作っていた。

駐車場に車を入れ、エンジンを切る。

そこから、生産課のあるビルまで、歩いて十分。日によっては、もっとかかった。広い敷地を、自分の足で横切る時間が、運転の時間と机の時間とのあいだに、もう一つ挟まれていた。歩きながら、車の中で考えていたことを、もう一度、頭の中で並べ直す。机に着くころには、その日の最初の動きが、ほぼ決まっていた。

◇ ◇ ◇

村山工場の地形を、今、思い出してみる。

広い敷地の西側には、全長四千メートルのテストコースが横たわっていた。一周四キロという、当時の自動車工場としては破格の規模である。テスト走行のための高速周回路、加速・制動試験のための直線、悪路走行のためのコーナー——それぞれが、テストコースの中に組み込まれていた。完成した車が、そこで走り、ねじ伏せられるようにして、性能を確認されていた。

テストコースの東側に、生産設備が並んでいた。

プレス工場、車体工場、塗装工場、組立工場、そしてフォークリフトの生産工場——。鉄板を打ち抜き、車体を溶接で組み上げ、塗装の窯に入れて焼き付け、組立ラインで部品を載せていく。その流れの全体が、テストコースの東側の一帯に、地形として配置されていた。

当時の主要車種は、スカイラインとローレル。

のちには、マーチも生産されることになる。スカイラインは走りの車、ローレルは少し落ち着いた車、マーチはコンパクトな大衆車——日産の車種ラインナップの中でも、性格の違う三つの車を、同じ工場で並べて作っていた。生産能力は、一日、昼夜で一千台近くに達していたと思う。一年で三十万台を超える車が、この敷地から日本中、世界中に出ていったことになる。

その一日千台のラインの上を、自分が組んだ計画書の数字が、毎日、流れていた。

◇ ◇ ◇

夕方、仕事を終えて、また同じチェリーX1で家に戻る。

行きと帰りでは、見える景色がまったく違う。朝の渋滞のあった場所は、夕方は別の方向の渋滞になり、朝に光っていた多摩川の水面は、夕方は夕陽を映して別の色になる。同じ十五キロの道を、毎朝毎晩、別の表情で走り続けていた。

自分のチェリーX1は、その毎日の景色を、黙って運んでくれた。

多磨塾で買った一台が、自分の最初の車だった。多磨塾——その名前が、今となっては妙に懐かしい。あそこで買ったチェリーX1は、決して上等な車ではなかった。それでも、若い日の自分にとっては、独身寮の便利さと引き換えにしてでも持ちたかった、最初の自由の道具だった。

◆ ◆ ◆

村山工場は、もうない。

日産の業績が悪化し、村山工場は閉鎖された。あれから何年が経ったか——十年か、二十年か、もう少し前か。閉鎖されたあと、跡地は丁寧に整地され、今では、地図の上で、巨大な空白として横たわっている。

地図を開くと、その空白の輪郭が、今でもよくわかる。

なぜなら、自分の頭の中には、当時の工場の地形が、まだ生きた地図として残っているからである。テストコースの曲線、プレス工場の位置、車体工場と塗装工場のあいだの通路、組立工場の長辺、フォークリフト工場のささやかな一角——それらが、今の地図の空白の上に、透明な線で重なって見える。

かつて一日千台の車が走り出していった敷地が、今は静かな空白になっている。

そこに毎朝、三千人が車で集まっていたという事実を、今の地図は、もう何も語っていない。語っていないが、しかし、自分の中には、語られないままの記憶が残っている。チェリーX1で走った十五キロ、跨線橋の渋滞、立飛工場、砂川七番、駐車場の朝、敷地を歩く十分——それらは、地図の空白とは関係なく、自分の体の中に、はっきりと残っている。

町の渋滞は、今も同じ場所にある。

しかし、その渋滞の終点にあった工場は、もうない。終点が消えても、その手前の渋滞だけは、変わらず居座り続ける——そういうことが、人間の暮らしには、起こる。土木は人より長く生き、産業はそれより短い時間で動き、人間の記憶はその両方を、不思議な形で抱え続ける。

朝のチェリーX1は、もう走っていない。

しかし、走っていたあの朝のことは、まだ消えない。

(つづく) R080430
― 姓 名 科 学 の 殿 堂 ― https://yymm77.github.io/seimei-kagaku/
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◆ フランス革命と徴兵制による「国民国家」の誕生  ◆『かけがえのない国 誇り高き日本文明』武田邦彦著 MdN出版(R05年)より

◆ フランス革命と徴兵制による「国民国家」の誕生  ◆ このフランス革命は「徴兵制」を生んだ革命としても知られています。 1793年、共和制政府が国民総徴兵法を布告し、フランスは百万人規模の国民皆兵の態勢に入りました。1796年にヨーロッパ制覇を目指して開始されたナポレオン戦争は、徴兵制をさらに拡充させました。1812年のモスクワ遠征失敗を機に、戦争はフランス帝国防衛戦争へと変遷します。 徴兵制は画期的な制度でした。フランス革命以前、ヨーロッパ諸国の軍隊は「騎士団」と呼ばれる、カネで雇われて戦う傭兵たちで構成されていたのです。 自分の国は自分で守るという意識はナポレオン戦争を通じて高まり、ここにヨーロッパに初めて「国民国家」というものが登場したのです。 『かけがえのない国 誇り高き日本文明』武田邦彦著 MdN出版(R05年)より R080430

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至誠の覚醒 連載 第五十二話  チェリーX1で走る朝

至誠の覚醒 連載 第五十二話  チェリーX1で走る朝


第 二 章 ・ 社 会 の 時 代
第 五 十 二 話

立川の渋滞

― チ ェ リ ー X 1 で 走 る 朝 ―

入社して最初の数か月は、工場の敷地内にあった独身寮で暮らしていた。

朝起きて、寮の食堂で簡単な朝食を取り、敷地内を歩いて自分の机に向かう。通勤というほどの通勤ではない。職場と寝床のあいだに、徒歩十数分の道があるだけだった。便利と言えば便利だったが、二十代の若い体には、何かが物足りなかった。

多磨塾で買った、チェリーX1がある。

家から通えば十五キロちょっとである。自宅は多摩市連光寺。村山工場までの道のりを、毎朝、自分の車で走る——そう決めて、ほどなく寮を出た。寮の便利さよりも、毎朝の十五キロのほうが、自分には性に合っていた。車を持つというのは、単に移動の手段を持つということではない。一日のうちに、自分だけの時間と空間を、両端に確保するということでもある。

◇ ◇ ◇

通勤のルートは、人によって違っていた。

普通に勧められるのは、国道二十号——甲州街道——を素直に北西へ走るルートである。広い道で、信号も整備されていて、地理に不慣れな者でも迷わない。多くの社員は、たぶんそちらを選んでいた。

自分は、近道を狙う癖があった。

家を出てから、まず多摩川沿いの道を北西へ向かう。川面を右手に見ながら、軽く下流から上流へとさかのぼっていく形である。朝の多摩川は、季節によって匂いが違った。夏は草いきれと水の匂い、秋は枯れ草と砂の匂い、冬は冷たく硬い空気の匂いだった。窓を少し開けて走ると、その朝の匂いが、運転席まで流れ込んでくる。

多摩川の道から、細い枝道に入る。

車一台がやっと通れる、地元の人しか使わないような道である。地図の上では裏道だが、走ってみれば近道だった。曲がりくねった細い道を抜け、二十号線の手前で一方通行に当たる。一方通行の細い道を慎重に進み、二十号を突っ切る。突っ切った先も、また車一台がやっと通れる道。住宅の軒先をかすめるようにして、北西へと進路を取り続ける。

東京女子体育大学の脇を通り抜ける。

朝の早い時間にも、若い学生の姿が校門の周辺に見えることがあった。こちらは仕事に向かう車、向こうは登校してくる学生。すれ違う一瞬の風景の中に、別の時間を生きる人たちの気配があった。立川病院を左手に見ながら、さらに北西へ。立川の市街に入る前の、最初の渋滞ポイントを、こうして避けていく。

立川には、混む分かれ道がいくつかあった。

最初の一本目を避けても、その先で待っているものがある。中央線の跨線橋を越えるあたりから、いよいよ本格的な渋滞に入る。この区間は、当時、毎朝の風物詩のような滞りだった。

◇ ◇ ◇

跨線橋を越えるあたりの渋滞は、今でも変わらない。

これは、五十年以上経った今、たまに地図を眺めながら、しみじみと思うことである。あの頃、自分のチェリーX1の前にも後ろにも、同じように朝のラッシュに巻き込まれた車が並んでいた。あれから半世紀、あの場所の渋滞は、形を変えながらも、似たような時間に、似たような長さで、同じ場所に居座り続けている。

町には、変わるものと変わらないものとがある。

店は変わる。看板は変わる。歩いている人の服装も、髪型も、持っているものも変わる。しかし、道路の交差の仕方と、線路の通り方と、それによって生まれる渋滞のポイントだけは、なかなか変わらない。土木のスケールで起こることは、人間の世代を一つ二つ越えても、同じところに留まっている。あの跨線橋の渋滞は、土木のスケールで動いているのである。

渋滞の中で、自分は何を考えていたのか。

正直に言えば、覚えていない。具体的に何を考えていたかは、もう思い出せない。たぶん、その日の仕事のことを考えていたのだろう。中近東向けの仕様変更の電話が今日も来るだろうか、CCRの先輩に顔を合わせずに済むだろうか、ユニット計画の係に頭を下げる用件はあるだろうか——そんな細々したことを、ハンドルを握りながら、ゆっくりと頭の中で並べていたのだと思う。

渋滞の時間は、無駄な時間ではなかった。

机に着いてから慌ててやることを、車の中で先に整理しておけば、その日の最初の三十分の動きが変わる。動かない車の中で考えるのは、なぜか、机の前で考えるより遠くまで届いた。たぶん、視線がフロントガラスの先に放たれていたからだろう。机の前では、視線はせいぜい一メートル先の紙に落ちている。視線の届く距離が、思考の届く距離を、知らないあいだに決めているのかもしれない。

◇ ◇ ◇

跨線橋の渋滞を抜けると、左手に立飛工場が見えてくる。

立川飛行機の工場である。戦前から続く由緒ある場所で、当時もまだ立派な操業が続いていた。航空機を作る工場と、自動車を作る工場とが、同じ多摩の北西の片隅に並んで存在している——町の歴史というものを、若い自分は、その風景の中に何となく感じていた。

砂川七番から、都道五十五号線に入る。

ここまで来れば、もう村山工場は近い。道は広くなり、流れも軽くなる。家を出てから一時間と少しか、二時間近くか——日によって所要時間は違ったが、跨線橋の渋滞を抜けたあとの最後の一区間は、いつも気持ちが少し軽くなる時間だった。

そして、村山工場の門が見えてくる。

門というよりも、敷地の入り口である。当時、村山工場の従業員は三千人ほどいたと記憶している。その半分以上が車で通勤するのだから、当然、敷地の周囲には巨大な駐車場が用意されていた。朝のラッシュの時間帯には、駐車場へ向かう車の列が、もう一段の小さな渋滞を作っていた。

駐車場に車を入れ、エンジンを切る。

そこから、生産課のあるビルまで、歩いて十分。日によっては、もっとかかった。広い敷地を、自分の足で横切る時間が、運転の時間と机の時間とのあいだに、もう一つ挟まれていた。歩きながら、車の中で考えていたことを、もう一度、頭の中で並べ直す。机に着くころには、その日の最初の動きが、ほぼ決まっていた。

◇ ◇ ◇

村山工場の地形を、今、思い出してみる。

広い敷地の西側には、全長四千メートルのテストコースが横たわっていた。一周四キロという、当時の自動車工場としては破格の規模である。テスト走行のための高速周回路、加速・制動試験のための直線、悪路走行のためのコーナー——それぞれが、テストコースの中に組み込まれていた。完成した車が、そこで走り、ねじ伏せられるようにして、性能を確認されていた。

テストコースの東側に、生産設備が並んでいた。

プレス工場、車体工場、塗装工場、組立工場、そしてフォークリフトの生産工場——。鉄板を打ち抜き、車体を溶接で組み上げ、塗装の窯に入れて焼き付け、組立ラインで部品を載せていく。その流れの全体が、テストコースの東側の一帯に、地形として配置されていた。

当時の主要車種は、スカイラインとローレル。

のちには、マーチも生産されることになる。スカイラインは走りの車、ローレルは少し落ち着いた車、マーチはコンパクトな大衆車——日産の車種ラインナップの中でも、性格の違う三つの車を、同じ工場で並べて作っていた。生産能力は、一日、昼夜で一千台近くに達していたと思う。一年で三十万台を超える車が、この敷地から日本中、世界中に出ていったことになる。

その一日千台のラインの上を、自分が組んだ計画書の数字が、毎日、流れていた。

◇ ◇ ◇

夕方、仕事を終えて、また同じチェリーX1で家に戻る。

行きと帰りでは、見える景色がまったく違う。朝の渋滞のあった場所は、夕方は別の方向の渋滞になり、朝に光っていた多摩川の水面は、夕方は夕陽を映して別の色になる。同じ十五キロの道を、毎朝毎晩、別の表情で走り続けていた。

自分のチェリーX1は、その毎日の景色を、黙って運んでくれた。

多磨塾で買った一台が、自分の最初の車だった。多磨塾——その名前が、今となっては妙に懐かしい。あそこで買ったチェリーX1は、決して上等な車ではなかった。それでも、若い日の自分にとっては、独身寮の便利さと引き換えにしてでも持ちたかった、最初の自由の道具だった。

◆ ◆ ◆

村山工場は、もうない。

日産の業績が悪化し、村山工場は閉鎖された。あれから何年が経ったか——十年か、二十年か、もう少し前か。閉鎖されたあと、跡地は丁寧に整地され、今では、地図の上で、巨大な空白として横たわっている。

地図を開くと、その空白の輪郭が、今でもよくわかる。

なぜなら、自分の頭の中には、当時の工場の地形が、まだ生きた地図として残っているからである。テストコースの曲線、プレス工場の位置、車体工場と塗装工場のあいだの通路、組立工場の長辺、フォークリフト工場のささやかな一角——それらが、今の地図の空白の上に、透明な線で重なって見える。

かつて一日千台の車が走り出していった敷地が、今は静かな空白になっている。

そこに毎朝、三千人が車で集まっていたという事実を、今の地図は、もう何も語っていない。語っていないが、しかし、自分の中には、語られないままの記憶が残っている。チェリーX1で走った十五キロ、跨線橋の渋滞、立飛工場、砂川七番、駐車場の朝、敷地を歩く十分——それらは、地図の空白とは関係なく、自分の体の中に、はっきりと残っている。

町の渋滞は、今も同じ場所にある。

しかし、その渋滞の終点にあった工場は、もうない。終点が消えても、その手前の渋滞だけは、変わらず居座り続ける——そういうことが、人間の暮らしには、起こる。土木は人より長く生き、産業はそれより短い時間で動き、人間の記憶はその両方を、不思議な形で抱え続ける。

朝のチェリーX1は、もう走っていない。

しかし、走っていたあの朝のことは、まだ消えない。

(つづく) R080430
― 姓 名 科 学 の 殿 堂 ―
https://yymm77.github.io/seimei-kagaku/
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