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2024年11月10日日曜日

守るは『国民』より『憲法』!?日本共産党の「憲法を守り抜く」の違和感。憲法を経典にする護憲派、それは宗教です。|竹田恒泰チャンネル2

守るは『国民』より『憲法』!?日本共産党の「憲法を守り抜く」の違和感。憲法を経典にする護憲派、それは宗教です。|竹田恒泰チャンネル2

日本軍の強さは、「技術力」と「人間力」にあり

日本軍の強さは、「技術力」と「人間力」にあり 軍隊の在り方というものも、日本は特徴的でした。明治時代後期に「日清戦争」「日露戦争」と、大国と言われた国に連勝した要因には「技術力」とともに「人間力」がありました。

日清戦争は年から2年間にわたる戦争でした。 当時の清は「眠れる獅子」と言われ、大国ながらもヨーロッパ諸国による利権奪取が進み国力も落ちていました。清を宗主国としていた朝鮮は重税などを原因として民衆は疲弊し、内乱状態となり、「東学党の乱」が起こります。朝鮮は宗主国である清に鎮圧を要請しました。 日本と清との間には「天津条約」という条約が結ばれていました。天津条約には、日清両国の朝鮮に対する派兵・撤兵の条件条項があり、日本は内乱からの自国民の保護を名目に朝鮮半島に派兵します。日清両国の軍がぶつかり、戦争が開始されたのです――――。 朝鮮の首都ソウル付近で両国の軍隊は対峙しました。日本が攻勢に展開し、一気に清国内に転戦します。日本は黄海などの制海権も奪い、翌年3月には清の首都・北京に迫る勢いとなりました。 清との戦いは基本的に陸上戦でした。着剣命令が出て兵隊一同が鉄砲に銃剣を着剣、目前の敵軍に向けて身構え、ラッパの合図とともに敵に突撃します。当時は近接戦闘用の兵器で戦う白兵戦が主で、銃弾の雨の中、命を顧みることなく突撃していくという戦いが、陸上戦というものでした。 日本軍は、はるばる大陸に渡ってきて見知らぬ土地で清の兵隊と相まみえようという勇敢な兵の集合体でした。日本を守る、そして日本に暮らす親兄弟を守るために、勇気を奮い立たせて戦いました。 清の軍隊は日本軍とは対照的でした。清軍の兵隊はある程度のところまで攻め込まれると逃げ出していくのです。どの戦場においてもこれは変わりませんでした。 こうした清の兵隊の態度は当然と言えば当然でした。清ばかりでなく、中国大陸で勃興を繰り返してきた王朝には、愛して守るべき伝統、守るに値する深い一体感、あるいは国といったものがないからです。 中国四千年の歴史などと言われますが、それは現在の中華人民共和国の対外的なプ口パガンダというもので、多く見積もってもその歴史は2000年、それも中抜け、虐殺、属国化の歴史です。 そもそも「中国」という国は存在しません。アジアの大陸に存在する「China」という場所に「漢」「唐」「宋」「元」「明」「清」などの王朝が交代していき、それぞれの覇権が打ち立てられたに過ぎません。 王朝の交代は前王朝を完全否定することによって完成します。新しく成立した王朝は前王朝の財宝をすべて奪い、さらには前王朝の墳墓をすべて掘り返して遺骨をバラバラにさえしてしまいます。 前王朝の権威をすべて否定してみせて、改めて自分たちが新しい国を打ち立てる、というのが中国の王朝の歴史です。そこには継続性など微塵もありません。 清は元々、万里の長城の外にある満州を本拠としていた北方系の女真族が立てた王朝です。1616年に天命帝が満州に建国し、1644年いわゆる漢民族を制圧して北京に遷都しました。 4代康熙(こうき)帝の頃に台湾を属国化し、北方領域ではロシアと交渉して国境を安定させます。6代乾隆(はんりゅう)帝の頃までには中華地域一帯を勢力下に収めるに至りました。1970年代までは世界に冠たる帝国でした 。 19世紀に入ると、人口爆発やそれにともなう食料危機、経済停滞、内乱などで国カが低下するとともに、新たに、ヨーロッパ諸国の進出という対外問題を抱えることになります。1840年のイギリスとのアヘン戦争で清は大敗し、さらに日清戦争でも大敗しました。 清の軍隊が必死に戦わなかったのはその後の自国の運命を感じ取っていたからかもしれません。清は、日清戦争のすぐ後、1911年に始まる辛亥革命で滅亡したのです。 日本は、日清戦争時点で皇紀2554年、皇統が数千年にわたって引き継がれている国です。天皇の下、民はすべて平等であるという 一体感が脈々と受け継がれているのです。 故郷を守る、家族を守る、民をひたすらに思う天皇のありがたさを守るという思いで一致団結して敵に立ち向かっていたのが日本の軍隊でした。 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060208 152  R061110

皇居勤労奉仕 一般社団法人日本令和研究所 令和6年11月10日版メルマガより

皇居勤労奉仕 一般社団法人日本令和研究所 令和6年11月10日版メルマガより

皇居勤労奉仕とは、 皇居と赤坂御所の敷地内を 4日かけて除草、清掃、 庭園作業などを行う清掃活動です。 参加者は15名以上の団をつくり、参加します。 また、大変ありがたいことに、 天皇皇后両陛下よりご会釈を賜ります。 ※現在はコロナ対策の為、 3日間に短縮 この皇居勤労奉仕のはじまりは、 昭和20年5月に空襲で 焼失した宮殿の焼け跡を整理するために、 宮城県栗原郡(現在の栗原市)の 62名の青年たちが 勤労奉仕を申し出たことから始まりました。 それ以来現在まで続いています。 今回、私は沖縄県の皆さんと一緒に、 10月29日から31日にかけて、 勤労奉仕に参加しました。 まず驚いたのが、初日の午前中に ご会釈を賜ることになったことです。 翌日に秋の園遊会を お控えになっているにもかかわらず、 私たち奉仕団の為にご会釈をいただきました。 陛下からは、 日ごろの活動について、 また期間中に沖縄に台風が接近していた為、 台風の被害などがないかを ご心配いただきました。 私が平成の時代に勤労奉仕に 参加していた際も、 当時の皇太子殿下に ご会釈を賜っていました。 当時は次の天皇陛下になられるお方として、 緊張感のようなものを感じましたが、 今回のご会釈では、 そういった印象は受けませんでした。 国民の安寧と幸福を祈っておられる、 そうした、お優しさが自然と伝わってくるような、 ご会釈でした。 初日の清掃は、東御苑という地区で行いました。 東御苑は江戸城の名残が感じられる場所であり、 大嘗祭のお宮が建てられる場所でもあります。 江戸時代の役人が詰めていた 百人番所、展望台、天守台、 演奏会が行われる桃華楽堂、 各県の木などを見ることが出来ます。 ここは、一般公開されている場所でもあるので、 どなたでも入ることができます。 ちなみに、皇居は大きく3つの地区に わけることができます。 儀式や陛下が公務をされる「宮殿地区」、 宮中祭祀が行われる宮中三殿や、 両陛下がお住まいの御所がある「吹上地区」、 そして、「東御苑」の3つです。 勤労奉仕では、 それぞれの地区を1日ごとに清掃します。 2日目は、宮殿地区での清掃を行いました。 現在の宮殿は、昭和43年に造られたもので、 日本古来の建築美を生かして造られました。 宮殿では新年祝賀の儀、歌会始の儀、 信任状捧呈式などの 公的儀式が行われています。 宮殿内にある正殿と呼ばれる場所では、 即位礼正殿の儀が行われました。 正殿松の間に高御座がおかれ、 新天皇陛下が即位を 国内外に宣明される儀式です。 その正殿もご案内いただきましたが、 まだ、令和の御代替りの 儀式の記憶があったこともあり、 同じ場所に立っていると思うと、 大変感動しました。 この日の作業は、 南庭で枝や落ち葉拾いを行いました。 そして最終日は、 皇居内でも最も神聖であり、 警備も厳しい吹上地区を清掃しました。 最初に、宮中三殿を回廊の外から参拝しました。 初日の雨が嘘のように空は秋晴れになり、 まるで神々様に歓迎していただいているような 気持ちになりました。 やはりここの場所は、他の地区とは違い、 静謐で厳かな雰囲気が漂っていました。 次に生物学研究所を清掃。 主に天皇陛下が御田植になる御田や 皇后陛下がなされている御養蚕の 蚕の餌となる桑、粟などを拝見しました。 ここで育てられた穀物や果物は、 宮中祭祀の神饌(捧げもの)になります。 そのように思うと、 落ち葉や落ちている柿の実も 丁寧に集めようという気持ちが働き、 普段の所謂掃除とは違った心境で 清掃しました。 最後に、 天皇陛下から賜り物をいただき、 解散となりました。 宮内庁の職員の方によれば、 コロナ期間中に中止していたということもあってか、 現在、勤労奉仕に申し込む方が大変多いと言います。 毎回抽選をして参加団体を決めているそうですが、 中には2年間、19回も申し込み続けて やっと参加できた団体もいるそうです。 参加団体は、旅費や宿泊費、 食事代もすべて自費で賄います。 報酬が出るわけでもありません。 しかし皇居を清掃する為にかけつける国民が 全国にいる、という国は、 世界広しといえど、 我が国だけではないでしょうか。 かつて、宮城県の青年たちの、 「天皇陛下のために」という一心で始まった 皇居勤労奉仕。 その精神は、 現代の日本人にも 脈々と受け継がれていることを感じました。 この度、勤労奉仕に参加して、 改めて日本人としての誇りを強く感じたと共に、 皇室の為にお役に立てる日本人になるため、 日々精進していきたいと決意を新たにしました。 (ゆうな) ご入会はこちら 一般社団法人日本令和研究所

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佐々木朗希 「ドジャース有力」米メディア一斉報道!大谷翔平・山本由伸リクルート!チェコ代表からもエール!全30球団予想「ドジャースが獲得するだろう」

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2024年11月9日土曜日

母が楽しみにしてた娘との旅行…!日本人の対応や行動に驚いてしまう

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「基礎科学」の有無が植民地化の別れ道

「基礎科学」の有無が植民地化の別れ道 1856年、江戸幕府は、後1863年に「開成所」と改称されて東京大学の前身ともなる「蕃書調所(ばんしよしらべしょ)」を設立しました。幕府直轄で、洋学教育ならびに洋書や外交文書の翻訳を行う洋学研究機関です。 先に触れたように、幕末から明治期は、大量のヨーロッパの書物が日本語に翻訳された時代でした。

欧米列強の植民地政策がアジア地域で展開される中、アジア諸国と日本の決定的な差は科学に対する取り組みにありました。開成所での研究を中心に、日本人が認識したのは基礎科学の重要性でした。 たとえば、当初は精錬学と呼ばれた化学の教官を担当していた竹原平次郎はフランスの化学者ギラルジの『化学入門』を翻訳し、物理学の教鞭を取っていた市川盛三郎はドイツから招聘した理化学者リッテルロ 述による『理化日記』をまとめました。 1870年に開設された大阪開成所では、オランダ人化学者ハラタマの同校での講 義録『金銀精分』が出版されました。 この他、医学関係で言えば、日本陸軍軍医で日本赤十字社社長を務めたことでも知られる石黒忠應(ただのり)が翻訳編集を務めた『化学訓蒙』が出版また増訂されるなど、当時の日本人の知識欲の旺盛さには深い敬意を表すばかりです。 江戸時代の杉田玄白の『解体新書』は有名ですが、慶應義塾出身の医学者・松山棟庵(とうあん)が1868年に翻訳出版したアメリカの医学者フリントの『窒扶斯(チフス)新論』、オランダの陸軍軍医バウドインが1870年に東京大学医学部の前身である大学東校で行った講義の記録『日講記聞』、1871年に出版された海軍病院で行われたイギリスの医師ホイーラーの解剖学講義の翻訳『講筵筆記 』など 、医学書の発刊が活発に行われました。 一方、日本の数学は著しい特異性を持っていました。理学や医学についてはそのすべてが欧米書籍の直訳による知識吸収でしたが、数学は江戸時代にすでに日本固有のものを持っていました。「読み書きそろばん」と言われる商算、和算が学問として成立していたのです。

1672年に京都の和算家・吉田光由が著した『塵劫記(じんこうき)』は西洋にもひけをとらない算術の名著です。関流七伝免許皆伝の和算家にして参謀本部陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師・川北朝鄰(ともちか)が1872年に著した『洋算発微』は日本人が書いた洋学系の数学書物として敬意を表さなければなりません。 長崎の海軍伝習所出身で後に咸臨丸の航海長を務める和算家の小野友五郎が軍艦の操縦、ならびに航海に必要な西洋数学の習得が早かったのも、こうした日本の伝統が あるからです。 工業技術については細々と電信、鉄道、造船、造幣の輸入が進んでいました。1872年に機械工学の入門書である田代義矩が編んだ『図解機械事始』が出版されています。蒸気機関についての解説が水車の機械と並んで紹介されています。 日本は、極めて短期間で大量の西洋の書物を整理しました。こうした現象は、アジアはもちろん世界でも例がないほどです。 1886年、明治政府は「小学校令」を出し、小学校を尋常・高等の2段階に分けて各4年制とするとともに、尋常小学校の4年間を義務教育としました。元々勉強熱心で識字率が高かったということもありますが、識字率については明治期においても産業革命に成功したイギリスを大きく上回っていました。 東大工学部の前身である工部大学校の初代校長を務めた大鳥圭介が1886年、今日では日本学士院となっている政府機関での演説で、次のように述べています。 「今日ヨーロッパは世界のすべての国々を支配して植民地にしているが、人口からするとアジアの方がヨーロッパより三倍程度多い。それなのにアジアがヨーロッパ人に蹂躙されているのはとりもなおさず教育が不足しているからだ。これからは日本人に教育を行い、国民がより学びヨーロッパを凌駕しなければいけない」 大鳥圭介は元幕臣として翻訳係を務め、函館政権の陸軍奉行の地位にありました。戊辰戦争後に新政府に出仕し、教育者として日本の工業技術の発展に尽くしたという人物です。 1886年は、帝国大学令が出されて高等教育機関の整備が佳境に入っていく年でした。明治初期から数多く登場してきていた私学は1918 年の大学令で大学として組織化され、日本の教育体制はさらに整っていきます。日本人がそもそも持っていた「もの」への関心、工学の才能、数学の才能の開花を促進していくのです。 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060207 148  R061109