何だかんだ言っても、やはりみんな幸福な生活を望んでいるのではないでしょうか。そのために、日々生活し、活動し、出逢いなどなど行っています。日常の生活で感じた事、実際に経験したことなど、徒然のままに、記録してみます。
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2024年11月6日水曜日
「蒸気機関」を設計図だけで作り上げた日本人
「蒸気機関」を設計図だけで作り上げた日本人
イギリスのジェームズ・ワットが 18世紀の初頭につくられた炭鉱の排水用の蒸気機関を改良し、実用的で効率的な「蒸気機関」を完成させたのは、1760年代のことでした。
19世紀初頭、1804年にはトレヴィシックというイギリスの発明家が、実用には至らなかったもののスティーブンソンに先駆けて蒸気機関車を完成させています。
この蒸気機関の設計図が、幕末の日本に渡ってきました。実物ではありません。設計図です。
そして、その設計図だけを見て、幕末の日本の技術者は苦心惨憎の末、ついに蒸気機関をつくり上げたのです。
設計図を理解するだけでもたいへんなことです。
そもそも蒸気機関の実物を見たこともない中、鉄の塊から削り出してつくるシリンダーや、パッキングや弁などの未知の素材を使う部品まで、設計図から読み取ってエ夫に工夫を重ねました。
イギリスでは18世紀の産業革命を通じて加工機械や材料の開発を終えていたことを前提として蒸気機関の誕生がありました。そうした前提のない日本では、蒸気機関の製作は普通に考えればとても無理な話でした。
何事もしつこく追求して、諦めるということを知らない日本人の才能がなせる技でしょう。
幕末の技術者はとにかく類似の機械をつくり上げました。設計図によればその出力は12馬力でしたが、その6分の1の 馬力を出力する蒸気機関が完成したのです。
部品加工、必要素材の問題を考えれば、不十分な点は当然です。しかし、工業力というものがなかった日本で、設計図だけで蒸気機関をつくつてしまったという事実は驚くべきことです。
幕末当時、アジアで蒸気機関を製作しようなどと考えた国はもちろん日本だけでした。
『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より
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R6 11/06【ゲスト:武田 邦彦 / 小野寺 まさる】百田尚樹・有本香のニュース生放送 あさ8時! 第492回
R6 11/06【ゲスト:武田 邦彦 / 小野寺 まさる】百田尚樹・有本香のニュース生放送 あさ8時! 第492回
2024年11月5日火曜日
『解体新書』と日本人の科学技術に対する意識
『解体新書』と日本人の科学技術に対する意識
日本人には、科学技術にしつかりと向き合う姿勢が古来から連綿と受け継がれてきました。
日本人の科学技術に対する意識がたいへんよくわかるのが、1774年、江戸時代後期の安永3年に発刊された『解体新書』の翻訳のエピソードです。
原本の『ターヘル・アナトミア』はドイツのクルムスという解剖学者が1722年に著した『解剖図譜』を、オランダの大学都市・ライデンで活動していたディクテンという医師がオランダ語訳した書物でした。
このドイツに生まれてオランダ語に訳された医学書を、豊前国中津藩藩医にして蘭学者の前野良沢が翻訳し、若狭国小浜藩藩医にして蘭学者の杉田玄白がまとめ上げたのが『解体新書』です。
当時、ヨーロッパの書物を自国語に翻訳した例は世界で初めてでした。つまり、外国の本はその外国語を学んで読むものでした。
特に西洋においては、外国語の本を読めるということがその人間の社会的地位を高めました。ドイツ語が読める、フランス語が読める、ラテン語が読めるといったことは、自分の利益を確保して他に渡さないという点で重要だったのです。
翻訳の意義は、その国の人間なら誰にでも読めるようにする、ということです。その書物に書かれた知識を「同胞で共有したい」、という情熱のなせる技です。
『解体新書』以降、幕末から明治にかけて、理学あるいは工学の書物あるいは論文が点ほど日本語に翻訳されています。
外国からの貴重な情報を自分一人で独占して利益を得ようとする人間など日本にはいませんでした―――。
『解体新書』は日本人の、西洋医学への関心を高めました。同時に、西洋の科学技術への関心もまた高めることになります。
江戸時代の末期から明治にかけて実に多くの書物が日本語に翻訳されましたが、かえって明治時代から、医療の世界ではドイツ語で診断したりカルテに記載したりし始めました。
これは、診断結果を患者に直接わからないようにする配慮ということもありますが、医師による「情報独占」でもあります。新型コロナウイルスの蔓延時、医師による情報独占で具体的な診断内容が公にならず、政府の政策も右往左往したことは記憶に新しいことと思います。
最新情報の独占は支配階層の選民的な意識によってなされることが多く、これは世の中の混乱につながります。
『解体新書』の翻訳者たちには、情報の共有が人々の安心と社会の安定に必要だという利他の意識がありました。
『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より
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2024年11月4日月曜日
日本の城と西洋の城の決定的な違いとは
日本の城と西洋の城の決定的な違いとは
日本人の社会の在り方、日本人の心の在り方が西洋とどれほど違うか―――筆者の経験を一つ紹介してみたいと思います。
2000年代、名古屋大学に勤務していた頃に、フランスから訪れた研究者に名古屋城を案内したことがありました。
徳川御三家の筆頭である尾張徳川家が治めた名古屋城は立派な城郭で知られ、名古屋人の自慢の一つとなっています。
名古屋城を案内すると、フランス人の研究者が「ずいぶん小さな城ですね」と言うのです。
筆者は「そんなことはありません。“尾張名古屋は城でもつ”という慣用句もあるくらいの立派な城です」と丁寧に説明しました。
次に、フランス人の研究者から「この城にはどなたが住んでいたのですか?」と質問されました。
筆者は「殿さまとそのご家族と重臣、世話をする係やその他の人々です」と答えました。
すると、フランス人の研究者はこう言うのです。
「一般の市民はどこに住んでいたのですか? 市民が城の外に住むのであれば、城の意味がない!」
実はここに、日本の文明と、西洋をはじめとする海外の文明の違いが如実に表れているのです。
ヨーロッパをはじめ、中国などの大陸の為政者は、一つの街の外周に巨大な城壁をつくり、そこに貴族あるいは兵士、市民をすべて囲い込みます。
かつてはコンスタンティノープルと呼ばれたトルコのイスタンブールはその好例でしょう。
中国の都市も城の中、つまり城壁の中にあります。
広大な城の中に領主、あるいは皇帝がいて、貴族もいて、兵隊もいて、一般の市民も暮らしています。
夜になると城外と連絡している城壁の門は堅固に閉じられます。外敵や盗賊から城内を守るためです。
つまり、城内の治安を守り、城内に住んでいる人たちの生命と財産を守るために建築されたものが西洋人あるいは中国人にとっての「城」なのです。
城の中に住む人は城の支配を受けることによって安全が保障されます。
ただし、城の支配者が戦争に負けるなどしてしまうと、状況ががらりと変わります。城内に住む人は非戦闘員の一般人であっても殺害されたり、奴隷として確保されたりしてしまうのです。
城外に暮らせば自由かもしれませんが、城内で暮らさない限り安全の保障はありません。
つまり、城外は外敵だらけなのです。少しでも治安の良い城内での生活を多くの人々は望みました。
一方、日本の「城」に住んでいるのは「殿さまとそのご家族と重臣、世話をする係やその他の人々」だけです。
要するに、一般の市民には西洋型の城を必要とするような「治安維持の不安」はなかったのです。
日本人が考える「城」と「一般人」の関係は、ヨーロッパや中国の「城」と「一般人」の関係とまったく違っています。
西洋の人々からすれば日本の城は砦、つまり本拠は別にちゃんとあって戦争のために臨時につくられる小型の城としか考えられません。しかし、日本の「城」には、それどころではない格別な美しさというものがあります。
日本は鎌倉政権以来、室町政権、徳川政権と、天皇に任命された征夷大将軍がトップを担当する軍事政権が政治を担ってきました。
日本では「城」がそのまま行政機関であり、権威というものを持ちますから、おのずと豪華な、あるいは視覚的に魅力のある仔(たたず)まいになるのです。
『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より
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