何だかんだ言っても、やはりみんな幸福な生活を望んでいるのではないでしょうか。そのために、日々生活し、活動し、出逢いなどなど行っています。日常の生活で感じた事、実際に経験したことなど、徒然のままに、記録してみます。
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2024年11月3日日曜日
戦術・作戦の巧みな「世界最強」のモンゴル軍
戦術・作戦の巧みな「世界最強」のモンゴル軍
当時のモンゴル軍は「世界最強」と言われました。その理由は、「戦い方 」にあります。
1241年、モンゴル帝国のヨーロッパ遠征軍とポーランド・ドイツ連合軍との間で、「ワールシュタットの戦い」と呼ばれる戦争が起こりました。モンゴル軍が連合軍側の大将ヘンリク2世を討ち取って勝利した戦いです。
当時のヨーロッパの軍隊の主力は甲胄を着た「騎士」です。報酬次第で働く傭兵であり、一人ひとりが敵を討つ「個人戦」で戦争を処理していく傾向にありました。
これに対しモンゴル軍には全体的な「戦術」というものがありました。
まず、機動力に富む軽装備の騎兵と戦闘力に富む重装備の騎兵に分けて配備します。戦闘プランは状況によって違ってきますが、たとえば「軽装備の騎兵が突入して激戦を展開しておいて突然退却、退却に勢いを得た敵が追撃してきたところを伏兵が待ち受ける」といった戦術を採ります。
軽装備の騎兵が両面から挟み撃ちを仕掛けて追撃してきた敵を包み込み、背後に煙幕を張って戦場を見えなくし、パニックに陥れるといった心理作戦も得意でした。
兵士一人ひとりの能力もさることながら、戦術・作戦の巧みさ、集団の連携で敵を陥れる戦い方で世界各地に侵攻していったのがモンゴル軍でした。当時世界最大の帝国は、モンゴル軍の実力をもって築かれたのです。
1274年の文永の役で、モンゴル軍は通説では4万人の大軍で攻めてきたとされています。ワールシュタットの戦いに動員した人数は2万人だと言われていますから、モンゴル軍としては万全を期した、と言っていいでしょう。
しかしモンゴル軍はたった1日戦っただけで、日本の武士団の強さに嫌気がさしたのか、博多湾から撤退していきました。その撤退中に暴風雨に遭い、モンゴル軍の船は沈没しました。モンゴル軍の敗退を決定的なものにしたので、後にこの暴風雨は「 神風」と呼ばれます。
1281年の弘安の役では、モンゴルは15万人を動員しました。中国大陸の南宋の侵略に成功した直後であり、旧南宋から大量に 徴兵して日本に 送り込んだものとされています。
モンゴルの再来襲はほぼ間違いないと踏んでいた執権の北条時宗は、モンゴル軍の上陸が見込まれる博多湾の沿岸に、 20キロメートルにわたる石垣をつくらせました。「元寇防塁(ぼうるい)」と呼ばれています。
モンゴル軍は防塁を避けて博多湾の西の海岸に上陸しましたが、地形が悪く撃退されます。日本側の作戦成功というものでしょう。海上待機を余儀なくされたモン ゴル軍に対して、日本の武士団は小舟を使ってモンゴル船に乗り込みゲリラ作戦を仕掛けました。
6月から3カ月間、モンゴル軍は船上での生活と武士団の攻撃に苦しみました。そして夏が終わり、台風の季節へと突入します。暴風雨で約4割の船と兵士が海の藻屑になったと推定されています。モンゴル軍の惨敗です。
執権北条時宗のリーダーシップと、九州御家人を中心とする鎌倉武士団の実力によって、集団戦も個人戦も優位に戦い、外敵を駆逐したのが元寇でした。当時の兵器の主力である弓矢、あるいは甲胄といった防御装備の質も日本側のほうが優れていたと考えられます。
そして、日本側にこそあった「団結力」というものを見逃すことはできません。モンゴル軍はモンゴル人と朝鮮半島の高麗人、あるいは旧南宋の人々の混合部隊でした。また、「モンゴル」という国の存続、あるいは発展を考えていたわけでもありません。
モンゴルの使者の隷属命令をきっぱりと拒否した鎌倉幕府、そしてその方針に十分に応えた鎌倉武士団は、「自分の国を自分の手で守り続ける」という強い意識でまとまっていたのです。
『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より
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第4章 日本の歴史 「想像力」を大切にしてきた日本文明 モンゴル帝国の侵略と日本人の団結力
第4章 日本の歴史 「想像力」を大切にしてきた日本文明
モンゴル帝国の侵略と日本人の団結力
ここからは、西洋文明と接触した時代からの「日本の歴史」を解析していきたいと思います。
日本は、大航海時代のヨーロッパによるもの以前にも、海外からの侵略を受けたことがあります。「元寇」と呼ばれる、1274年の「文永の役」と1281年の「弘安の役」、2度にわたるモンゴル帝国による日本侵略です。
歴史上世界最大の帝国は1920年時点の大英帝国で、地球上の陸地の約17パーセントを統治下に収めていました。モンゴル帝国の歴史は1206年から1653年までですが、その最盛期には当時世界最大、地球上の陸地の約 17パーセントを統治下に収めていました。
よく世界の3大征服者ということでマケドニアのアレクサンドロス大王、フランスの皇帝ナポレオン、モンゴルのチンギス・ハーンの名が挙げられます。その中で最も広大な領土を支配したのがチンギス・ハーンのモンゴル帝国でした。
そうした、当時世界最大の強国であるはずのモンゴル帝国の侵略を、日本は2度、撃退しました。戦後の学校教育は日本を矮小化して印象づける傾向にありますから、教科書などの説明では「モンゴル帝国の侵攻は、暴風雨に遭遇したことにより失敗した」とされることが多いものでした。
今では研究も進み、当時の鎌倉幕府執権・北条時宗の采配とそれに十分に応えた九州の御家人たちの実力によって撃退したことがわかっています。暴風雨は、モンゴル軍が兵を引き上げる際に遭遇したものですから関係がありません。モンゴル帝国の隷 属命令をきっぱりと拒否したのも時宗でした。
『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より
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遅ればせですが、【ドジャース、4年ぶり8度目のWS制覇!大谷と山本が悲願の世界一に輝く!】ドジャース vs ヤンキース 試合ハイライト MLB2024 ワールドシリーズ
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2024年11月2日土曜日
日本の軍事力が日本の鎖国を支えた 平和な社会と軍事力は矛盾しない
日本の軍事力が日本の鎖国を支えた 平和な社会と軍事力は矛盾しない
鉄砲の保有数もさることながら、当時の日本の武士団の強さは世界屈指だったと考えられています。実際に強かった、あるいは強いと評価されたために、世界各地でヨーロッパによる植民地化が進む一方、日本は植民地とならずに済んだのです。
キリスト教布教のために来日した宣教師たちは、ローマ教会に対してこまめにレポートを提出することを重要な仕事の一っとしていました。有名なルイス・フロイスの『フロイス日本史』は、それをまとめた書籍です。
そうした宣教師たちのレポートの中に、「日本は軍事的に強国である。植民地化は不可能である」という内容の報告がたびたび出てきます。事実、ポルトガルは日本の植民地化を諦めて引き下がりました。
計画半ばでその死によって頓挫しましたが、豊臣秀吉が朝鮮半島へ進出したのは、自分はポルトガルやスペインに比肩する武力を持っているという自信によるものだとも言われています。
秀吉が強引で積極的な外交政策をとろうとしたのと対照的に、江戸幕府を開いた徳 川家康は鎖国政策をとります。
鎖国政策とは、「日本は日本だけでやる」という決意です。
そして、この決意は当時世界屈指とされた日本の軍事力を背景にしたものです。日本は強かったからこそ、鎖国ができたのです。
言い方を変えれば、鎖国が可能なほど強い国は大航海時代当時、日本だけでした。平和な社会と軍事力は矛盾しません。日本文明の古来の伝統である「お互いを思いやる社会性」という団結力が、世界屈指の軍事力を生んだのです。
「自分の国は自分だけでやる」という思想が西洋にあれば、大航海時代以降数百年にわたるアジア周辺の植民地化、それを原因として生じた国際紛争、その最大のものとしての第二次世界大戦という悲惨は起こらなかったと言っていいでしょう。
『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より
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2024年11月1日金曜日
西洋の大航海時代と日本の鎖国時代
西洋の大航海時代と日本の鎖国時代
16世紀をピークとする大航海時代、スペインは主にアメリカ大陸の植民地化を進め、ポルトガルはアジア地域の植民地化を進めました。大砲を搭載した戦艦、鉄砲を携えた軍隊が各地を侵略していきました。
植民地の対象とされた地域には対抗できるだけの軍事力も技術もありませんでしたから侵略を受け入れるしかなく、統治権を失い、キリスト教化され、現地の文化は破壊されていきました。
トルデシリャス条約の改訂条約である1529年締結のサラゴサ条約に則り、当時の日本には主にポルトガルがやってきていました。
サラゴサ条約では東経144度30分が境界線として設定してありました。この境界線は日本列島上にあります。
西日本から九州にかけてポルトガルが進出してきている一方、東北の武将・伊達政宗にはスペインとの交流があったというのはそのためです。
1543年、ポルトガル商人の乗った明国の船が日本の種子島に漂着します。鉄砲伝来の年とされています。
すでにその時には種子島氏島主の家督を継いでいたとされる16歳の種子島時尭(ときたか)は、実演を見て鉄砲に興味を持ち、ポルトガル商人から2丁を購入します。時尭は1丁を領内の鍛冶職人に渡して研究させ、鉄砲の国産化に成功しました。
品物を購入するのは資金があれば誰にでもできることでしょうが、研究して工夫を重ね、自らの手で生産してしまうところまでに至るのは日本人ならではの気質と能力でしょう。
これを機に鉄砲職人が登場し、材質や機能における改良を重ね、日本の多湿な環境に合わせた火薬の開発をも進めました。
鉄砲には破壊力が期待できました。また、大きな音を発しますから、敵を威嚇して戦意を消失させるのにも適当な兵器でした。群雄割拠していた戦国武将たちの間にた ちまち需要が高まります。
戦国武将たちは鉄砲を手に入れるだけではなく、鉄砲をどのように使うか、戦術的にも工夫を重ねます。
たとえば、多分に伝説的ではあるにせよ、1571年、武田勝頼に相対した「長篠の戦い」で織田信長は、三段撃ちという戦術を使ったとされています。
信長は、戦場となった長篠城の設楽原(したらがはら)に騎馬部隊を食い止める馬防柵を設け、その馬防柵の後ろに鉄砲隊の列を3段に分けて控えさせました。
まず、迫ってくる敵の騎馬部隊めがけて1段目が射撃します。一度撃った鉄砲は、次に発射するまでに弾込めの時間が必要ですから、射撃した1段目は最後方に下がって弾込め作業を行います。その時には2段目の射撃兵が騎馬部隊めがけて攻撃しているという、連続の大量射撃を可能とした戦術が三段撃ちでした。
武田軍の騎馬部隊は当時、戦国最強として恐れられていました。信長は、鉄砲を装備した軍隊で武田軍に勝利し、いわゆる天下人への道を突き進むことになります。
戦国時代、日本には最盛期でヨーロッパ全域が保有する鉄砲と同数の鉄砲があったとされています。それは言いすぎだと思いますが、ヨーロッパの大国一国ほどの保有数はあったでしょう。種子島時尭が2丁の鉄砲を購入してからわずか3、40 年で日本の軍事力はここまでに 達しました。
『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より
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R6 11/01【ゲスト:高橋 洋一 / 森下 つよし】百田尚樹・有本香のニュース生放送 あさ8時! 第489回
R6 11/01【ゲスト:高橋 洋一 / 森下 つよし】百田尚樹・有本香のニュース生放送 あさ8時! 第489回
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