何だかんだ言っても、やはりみんな幸福な生活を望んでいるのではないでしょうか。そのために、日々生活し、活動し、出逢いなどなど行っています。日常の生活で感じた事、実際に経験したことなど、徒然のままに、記録してみます。
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2024年2月9日金曜日
【生配信】第379回 伊藤俊幸&グレンコ・アンドリーが話題のニュースを深掘り解説!ニッポンジャーナル
【生配信】第379回 伊藤俊幸&グレンコ・アンドリーが話題のニュースを深掘り解説!ニッポンジャーナル
R6 02/09【ゲスト:平井 宏治/森下 つよし】百田尚樹・有本香のニュース生放送 あさ8時! 第305回
R6 02/09【ゲスト:平井 宏治/森下 つよし】百田尚樹・有本香のニュース生放送 あさ8時! 第305回
2024年2月8日木曜日
日本軍の強さは、「技術力」と「人間力」にあり
日本軍の強さは、「技術力」と「人間力」にあり
軍隊の在り方というものも、日本は特徴的でした。明治時代後期に「日清戦争」「日露戦争」と、大国と言われた国に連勝した要因には「技術力」とともに「人間力」がありました。

日清戦争は年から2年間にわたる戦争でした。 当時の清は「眠れる獅子」と言われ、大国ながらもヨーロッパ諸国による利権奪取が進み国力も落ちていました。清を宗主国としていた朝鮮は重税などを原因として民衆は疲弊し、内乱状態となり、「東学党の乱」が起こります。朝鮮は宗主国である清に鎮圧を要請しました。 日本と清との間には「天津条約」という条約が結ばれていました。天津条約には、日清両国の朝鮮に対する派兵・撤兵の条件条項があり、日本は内乱からの自国民の保護を名目に朝鮮半島に派兵します。日清両国の軍がぶつかり、戦争が開始されたのです――――。 朝鮮の首都ソウル付近で両国の軍隊は対峙しました。日本が攻勢に展開し、一気に清国内に転戦します。日本は黄海などの制海権も奪い、翌年3月には清の首都・北京に迫る勢いとなりました。 清との戦いは基本的に陸上戦でした。着剣命令が出て兵隊一同が鉄砲に銃剣を着剣、目前の敵軍に向けて身構え、ラッパの合図とともに敵に突撃します。当時は近接戦闘用の兵器で戦う白兵戦が主で、銃弾の雨の中、命を顧みることなく突撃していくという戦いが、陸上戦というものでした。 日本軍は、はるばる大陸に渡ってきて見知らぬ土地で清の兵隊と相まみえようという勇敢な兵の集合体でした。日本を守る、そして日本に暮らす親兄弟を守るために、勇気を奮い立たせて戦いました。 清の軍隊は日本軍とは対照的でした。清軍の兵隊はある程度のところまで攻め込まれると逃げ出していくのです。どの戦場においてもこれは変わりませんでした。 こうした清の兵隊の態度は当然と言えば当然でした。清ばかりでなく、中国大陸で勃興を繰り返してきた王朝には、愛して守るべき伝統、守るに値する深い一体感、あるいは国といったものがないからです。 中国四千年の歴史などと言われますが、それは現在の中華人民共和国の対外的なプ口パガンダというもので、多く見積もってもその歴史は2000年、それも中抜け、虐殺、属国化の歴史です。 そもそも「中国」という国は存在しません。アジアの大陸に存在する「China」という場所に「漢」「唐」「宋」「元」「明」「清」などの王朝が交代していき、それぞれの覇権が打ち立てられたに過ぎません。 王朝の交代は前王朝を完全否定することによって完成します。新しく成立した王朝は前王朝の財宝をすべて奪い、さらには前王朝の墳墓をすべて掘り返して遺骨をバラバラにさえしてしまいます。 前王朝の権威をすべて否定してみせて、改めて自分たちが新しい国を打ち立てる、というのが中国の王朝の歴史です。そこには継続性など微塵もありません。 清は元々、万里の長城の外にある満州を本拠としていた北方系の女真族が立てた王朝です。1616年に天命帝が満州に建国し、1644年いわゆる漢民族を制圧して北京に遷都しました。 4代康熙(こうき)帝の頃に台湾を属国化し、北方領域ではロシアと交渉して国境を安定させます。6代乾隆(はんりゅう)帝の頃までには中華地域一帯を勢力下に収めるに至りました。1970年代までは世界に冠たる帝国でした 。 19世紀に入ると、人口爆発やそれにともなう食料危機、経済停滞、内乱などで国カが低下するとともに、新たに、ヨーロッパ諸国の進出という対外問題を抱えることになります。1840年のイギリスとのアヘン戦争で清は大敗し、さらに日清戦争でも大敗しました。 清の軍隊が必死に戦わなかったのはその後の自国の運命を感じ取っていたからかもしれません。清は、日清戦争のすぐ後、1911年に始まる辛亥革命で滅亡したのです。 日本は、日清戦争時点で皇紀2554年、皇統が数千年にわたって引き継がれている国です。天皇の下、民はすべて平等であるという 一体感が脈々と受け継がれているのです。 故郷を守る、家族を守る、民をひたすらに思う天皇のありがたさを守るという思いで一致団結して敵に立ち向かっていたのが日本の軍隊でした。 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060208 152

日清戦争は年から2年間にわたる戦争でした。 当時の清は「眠れる獅子」と言われ、大国ながらもヨーロッパ諸国による利権奪取が進み国力も落ちていました。清を宗主国としていた朝鮮は重税などを原因として民衆は疲弊し、内乱状態となり、「東学党の乱」が起こります。朝鮮は宗主国である清に鎮圧を要請しました。 日本と清との間には「天津条約」という条約が結ばれていました。天津条約には、日清両国の朝鮮に対する派兵・撤兵の条件条項があり、日本は内乱からの自国民の保護を名目に朝鮮半島に派兵します。日清両国の軍がぶつかり、戦争が開始されたのです――――。 朝鮮の首都ソウル付近で両国の軍隊は対峙しました。日本が攻勢に展開し、一気に清国内に転戦します。日本は黄海などの制海権も奪い、翌年3月には清の首都・北京に迫る勢いとなりました。 清との戦いは基本的に陸上戦でした。着剣命令が出て兵隊一同が鉄砲に銃剣を着剣、目前の敵軍に向けて身構え、ラッパの合図とともに敵に突撃します。当時は近接戦闘用の兵器で戦う白兵戦が主で、銃弾の雨の中、命を顧みることなく突撃していくという戦いが、陸上戦というものでした。 日本軍は、はるばる大陸に渡ってきて見知らぬ土地で清の兵隊と相まみえようという勇敢な兵の集合体でした。日本を守る、そして日本に暮らす親兄弟を守るために、勇気を奮い立たせて戦いました。 清の軍隊は日本軍とは対照的でした。清軍の兵隊はある程度のところまで攻め込まれると逃げ出していくのです。どの戦場においてもこれは変わりませんでした。 こうした清の兵隊の態度は当然と言えば当然でした。清ばかりでなく、中国大陸で勃興を繰り返してきた王朝には、愛して守るべき伝統、守るに値する深い一体感、あるいは国といったものがないからです。 中国四千年の歴史などと言われますが、それは現在の中華人民共和国の対外的なプ口パガンダというもので、多く見積もってもその歴史は2000年、それも中抜け、虐殺、属国化の歴史です。 そもそも「中国」という国は存在しません。アジアの大陸に存在する「China」という場所に「漢」「唐」「宋」「元」「明」「清」などの王朝が交代していき、それぞれの覇権が打ち立てられたに過ぎません。 王朝の交代は前王朝を完全否定することによって完成します。新しく成立した王朝は前王朝の財宝をすべて奪い、さらには前王朝の墳墓をすべて掘り返して遺骨をバラバラにさえしてしまいます。 前王朝の権威をすべて否定してみせて、改めて自分たちが新しい国を打ち立てる、というのが中国の王朝の歴史です。そこには継続性など微塵もありません。 清は元々、万里の長城の外にある満州を本拠としていた北方系の女真族が立てた王朝です。1616年に天命帝が満州に建国し、1644年いわゆる漢民族を制圧して北京に遷都しました。 4代康熙(こうき)帝の頃に台湾を属国化し、北方領域ではロシアと交渉して国境を安定させます。6代乾隆(はんりゅう)帝の頃までには中華地域一帯を勢力下に収めるに至りました。1970年代までは世界に冠たる帝国でした 。 19世紀に入ると、人口爆発やそれにともなう食料危機、経済停滞、内乱などで国カが低下するとともに、新たに、ヨーロッパ諸国の進出という対外問題を抱えることになります。1840年のイギリスとのアヘン戦争で清は大敗し、さらに日清戦争でも大敗しました。 清の軍隊が必死に戦わなかったのはその後の自国の運命を感じ取っていたからかもしれません。清は、日清戦争のすぐ後、1911年に始まる辛亥革命で滅亡したのです。 日本は、日清戦争時点で皇紀2554年、皇統が数千年にわたって引き継がれている国です。天皇の下、民はすべて平等であるという 一体感が脈々と受け継がれているのです。 故郷を守る、家族を守る、民をひたすらに思う天皇のありがたさを守るという思いで一致団結して敵に立ち向かっていたのが日本の軍隊でした。 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060208 152
2024年2月7日水曜日
「基礎科学」の有無が植民地化の別れ道
「基礎科学」の有無が植民地化の別れ道
1856年、江戸幕府は、後1863年に「開成所」と改称されて東京大学の前身ともなる「蕃書調所(ばんしよしらべしょ)」を設立しました。幕府直轄で、洋学教育ならびに洋書や外交文書の翻訳を行う洋学研究機関です。
先に触れたように、幕末から明治期は、大量のヨーロッパの書物が日本語に翻訳された時代でした。

欧米列強の植民地政策がアジア地域で展開される中、アジア諸国と日本の決定的な差は科学に対する取り組みにありました。開成所での研究を中心に、日本人が認識したのは基礎科学の重要性でした。 たとえば、当初は精錬学と呼ばれた化学の教官を担当していた竹原平次郎はフランスの化学者ギラルジの『化学入門』を翻訳し、物理学の教鞭を取っていた市川盛三郎はドイツから招聘した理化学者リッテルロ 述による『理化日記』をまとめました。 1870年に開設された大阪開成所では、オランダ人化学者ハラタマの同校での講 義録『金銀精分』が出版されました。 この他、医学関係で言えば、日本陸軍軍医で日本赤十字社社長を務めたことでも知られる石黒忠應(ただのり)が翻訳編集を務めた『化学訓蒙』が出版また増訂されるなど、当時の日本人の知識欲の旺盛さには深い敬意を表すばかりです。 江戸時代の杉田玄白の『解体新書』は有名ですが、慶應義塾出身の医学者・松山棟庵(とうあん)が1868年に翻訳出版したアメリカの医学者フリントの『窒扶斯(チフス)新論』、オランダの陸軍軍医バウドインが1870年に東京大学医学部の前身である大学東校で行った講義の記録『日講記聞』、1871年に出版された海軍病院で行われたイギリスの医師ホイーラーの解剖学講義の翻訳『講筵筆記 』など 、医学書の発刊が活発に行われました。 一方、日本の数学は著しい特異性を持っていました。理学や医学についてはそのすべてが欧米書籍の直訳による知識吸収でしたが、数学は江戸時代にすでに日本固有のものを持っていました。「読み書きそろばん」と言われる商算、和算が学問として成立していたのです。
1672年に京都の和算家・吉田光由が著した『塵劫記(じんこうき)』は西洋にもひけをとらない算術の名著です。関流七伝免許皆伝の和算家にして参謀本部陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師・川北朝鄰(ともちか)が1872年に著した『洋算発微』は日本人が書いた洋学系の数学書物として敬意を表さなければなりません。 長崎の海軍伝習所出身で後に咸臨丸の航海長を務める和算家の小野友五郎が軍艦の操縦、ならびに航海に必要な西洋数学の習得が早かったのも、こうした日本の伝統が あるからです。 工業技術については細々と電信、鉄道、造船、造幣の輸入が進んでいました。1872年に機械工学の入門書である田代義矩が編んだ『図解機械事始』が出版されています。蒸気機関についての解説が水車の機械と並んで紹介されています。 日本は、極めて短期間で大量の西洋の書物を整理しました。こうした現象は、アジアはもちろん世界でも例がないほどです。 1886年、明治政府は「小学校令」を出し、小学校を尋常・高等の2段階に分けて各4年制とするとともに、尋常小学校の4年間を義務教育としました。元々勉強熱心で識字率が高かったということもありますが、識字率については明治期においても産業革命に成功したイギリスを大きく上回っていました。 東大工学部の前身である工部大学校の初代校長を務めた大鳥圭介が1886年、今日では日本学士院となっている政府機関での演説で、次のように述べています。 「今日ヨーロッパは世界のすべての国々を支配して植民地にしているが、人口からするとアジアの方がヨーロッパより三倍程度多い。それなのにアジアがヨーロッパ人に蹂躙されているのはとりもなおさず教育が不足しているからだ。これからは日本人に教育を行い、国民がより学びヨーロッパを凌駕しなければいけない」 大鳥圭介は元幕臣として翻訳係を務め、函館政権の陸軍奉行の地位にありました。戊辰戦争後に新政府に出仕し、教育者として日本の工業技術の発展に尽くしたという人物です。 1886年は、帝国大学令が出されて高等教育機関の整備が佳境に入っていく年でした。明治初期から数多く登場してきていた私学は1918 年の大学令で大学として組織化され、日本の教育体制はさらに整っていきます。日本人がそもそも持っていた「もの」への関心、工学の才能、数学の才能の開花を促進していくのです。 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060207 148

欧米列強の植民地政策がアジア地域で展開される中、アジア諸国と日本の決定的な差は科学に対する取り組みにありました。開成所での研究を中心に、日本人が認識したのは基礎科学の重要性でした。 たとえば、当初は精錬学と呼ばれた化学の教官を担当していた竹原平次郎はフランスの化学者ギラルジの『化学入門』を翻訳し、物理学の教鞭を取っていた市川盛三郎はドイツから招聘した理化学者リッテルロ 述による『理化日記』をまとめました。 1870年に開設された大阪開成所では、オランダ人化学者ハラタマの同校での講 義録『金銀精分』が出版されました。 この他、医学関係で言えば、日本陸軍軍医で日本赤十字社社長を務めたことでも知られる石黒忠應(ただのり)が翻訳編集を務めた『化学訓蒙』が出版また増訂されるなど、当時の日本人の知識欲の旺盛さには深い敬意を表すばかりです。 江戸時代の杉田玄白の『解体新書』は有名ですが、慶應義塾出身の医学者・松山棟庵(とうあん)が1868年に翻訳出版したアメリカの医学者フリントの『窒扶斯(チフス)新論』、オランダの陸軍軍医バウドインが1870年に東京大学医学部の前身である大学東校で行った講義の記録『日講記聞』、1871年に出版された海軍病院で行われたイギリスの医師ホイーラーの解剖学講義の翻訳『講筵筆記 』など 、医学書の発刊が活発に行われました。 一方、日本の数学は著しい特異性を持っていました。理学や医学についてはそのすべてが欧米書籍の直訳による知識吸収でしたが、数学は江戸時代にすでに日本固有のものを持っていました。「読み書きそろばん」と言われる商算、和算が学問として成立していたのです。

1672年に京都の和算家・吉田光由が著した『塵劫記(じんこうき)』は西洋にもひけをとらない算術の名著です。関流七伝免許皆伝の和算家にして参謀本部陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師・川北朝鄰(ともちか)が1872年に著した『洋算発微』は日本人が書いた洋学系の数学書物として敬意を表さなければなりません。 長崎の海軍伝習所出身で後に咸臨丸の航海長を務める和算家の小野友五郎が軍艦の操縦、ならびに航海に必要な西洋数学の習得が早かったのも、こうした日本の伝統が あるからです。 工業技術については細々と電信、鉄道、造船、造幣の輸入が進んでいました。1872年に機械工学の入門書である田代義矩が編んだ『図解機械事始』が出版されています。蒸気機関についての解説が水車の機械と並んで紹介されています。 日本は、極めて短期間で大量の西洋の書物を整理しました。こうした現象は、アジアはもちろん世界でも例がないほどです。 1886年、明治政府は「小学校令」を出し、小学校を尋常・高等の2段階に分けて各4年制とするとともに、尋常小学校の4年間を義務教育としました。元々勉強熱心で識字率が高かったということもありますが、識字率については明治期においても産業革命に成功したイギリスを大きく上回っていました。 東大工学部の前身である工部大学校の初代校長を務めた大鳥圭介が1886年、今日では日本学士院となっている政府機関での演説で、次のように述べています。 「今日ヨーロッパは世界のすべての国々を支配して植民地にしているが、人口からするとアジアの方がヨーロッパより三倍程度多い。それなのにアジアがヨーロッパ人に蹂躙されているのはとりもなおさず教育が不足しているからだ。これからは日本人に教育を行い、国民がより学びヨーロッパを凌駕しなければいけない」 大鳥圭介は元幕臣として翻訳係を務め、函館政権の陸軍奉行の地位にありました。戊辰戦争後に新政府に出仕し、教育者として日本の工業技術の発展に尽くしたという人物です。 1886年は、帝国大学令が出されて高等教育機関の整備が佳境に入っていく年でした。明治初期から数多く登場してきていた私学は1918 年の大学令で大学として組織化され、日本の教育体制はさらに整っていきます。日本人がそもそも持っていた「もの」への関心、工学の才能、数学の才能の開花を促進していくのです。 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060207 148
2024年2月6日火曜日
「四国艦隊下関砲撃事件」と「薩英戦争」
「四国艦隊下関砲撃事件」と「薩英戦争」
幕末に欧米各国が日本に迫った「開国」とは、実質的に日本に植民地化を迫るものでした。
西洋列強の激しい嵐はすでにトルコ、インドから東アジア、中国に吹きすさんでいました。これは、まさに「蒸気の力」と「鉄の生産力」という工学がもたらした結果です。
元々攻撃的な狩猟民族であり、さらにはキリスト教の教義をバックボーンとするヨ ーロッパ人は、我々こそは世界を征服するに足る立派な民族だ、と確信していました。
アフリカは言うまでもなく、インド、インドネシア、ベトナム、中国、そしてフィリピンに至るまでが欧米の植民地と化しました。
そうした中、幸い日本は植民地とはなりませんでしたが、欧米列強との激しい衝突がたびたび起こっています。
1864年、「四国艦隊下関砲撃事件」と呼ばれる事件が起こります。四国とは、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの列強国のことです。
前年の1863年、孝明天皇の強い要望で将軍徳川家茂が外国を排撃する攘夷実行を約束、幕府は軍事行動を予定していなかったものの、長州藩が現在の関門海峡である馬関海峡を通過するアメリカ、フランス、オランダの船に対して砲撃を実施しました。四国艦隊下関砲撃事件はその報復のために列強国が起こしたものです。

1863年 、薩摩藩と大英帝国の間に「薩英戦争」も起こっています。下関における戦闘も薩英戦争も日本側が一方的にやられて終わったと教えられることが多いのですが、事実はまったく違います。 薩英戦争は、1862年の「生麦事件」をきっかけに起こりました。生麦事件とは、横浜港に近い武蔵国橘樹郡生麦村付近で薩摩藩主島津茂久の父島津久光の行列に遭遇したイギリス人たちを供回りの藩士たちが斬り付け、1名が死亡し、2名が重傷を負った事件です。 イギリス人は馬に乗っていました。行列の先頭にいた薩摩藩士が馬を降りて道を譲るように伝えましたが意思疎通は叶わず、イギリス人を乗せた馬は行列の中を逆行しました。久光の乗る籠に近付いたところで殺傷事件は起きました。 生麦事件は国際問題となり、イギリス側は江戸幕府に対して損害賠償請求を行い、幕府は賠償金を支払いました。イギリスはさらに薩摩落に対して報復すべく、大英帝国艦隊を薩摩湾に派遣して砲撃し、薩英戦争が始まります。 清を相手にした1840年の「アヘン戦争」で、イギリス軍は大勝利を収めていました。3回ほどの海戦で、清軍の戦死者2000人に対して、イギリス軍は7、8人という圧倒的な結果でした。地方政府に過ぎない薩摩藩を相手とする戦争などは推して知るべしでした。 実際、戦力においては薩摩藩と大英帝国艦隊では比較にならず、大砲の飛距離にも命中精度にも段違いの差がありました。
しかし、薩摩藩軍は強かったのです。砲撃を受けた鹿児島の街には損害がありましたが、藩主や住民の避難はほぽ完了しており、人的被害は少ないものでした。イギリス議会においては翌年1864年、鹿児島砲撃は一般市民を対象とした不当な戦闘行為であるとして問題となり、時のヴィクトリ ア女王が遺憾の意を表しています。薩摩藩軍は、大砲の射程は短いものの効率的な砲台の準備の下、砲撃を繰り返しました。その結果、薩摩側の被害も大きいものでしたが、イギリス側の被害のほうが大きく、指揮官を中心に多くの戦死者を出しました。 この結果は、イギリス側のみならず当時の世界を驚かせました。薩英戦争を経て、イギリスと薩摩藩は双方の関係を見直すこととなります。 幕藩体制は封建制度です。封建制度とは土地の支配権を分与することによって主従関係を形成するという制度であり、日本では、天皇から征夷大将軍に任命された徳川将軍が諸藩を統治するという形をとっていました。つまり、薩摩藩は領地統治において独立している状態です。 イギリスは薩摩藩を評価し、中央の江戸幕府よりも緊密な関係づくりを図りました。西郷隆盛が薩摩藩総大将として江戸に上り、幕臣 .勝海舟との間で江戸城の無血開城を取り決めた偉業の背景にはこうした経緯があります。 四国艦隊下関砲撃事件では長州藩が、薩英戦争では薩摩藩が、欧米列強と直接相対しました。これによって長州・薩摩の両藩が国際情勢のリアリズムを中央の徳川幕府よりもはるかに深く知ることになり、明治維新を牽引していくことになるのです。 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060206 144

1863年 、薩摩藩と大英帝国の間に「薩英戦争」も起こっています。下関における戦闘も薩英戦争も日本側が一方的にやられて終わったと教えられることが多いのですが、事実はまったく違います。 薩英戦争は、1862年の「生麦事件」をきっかけに起こりました。生麦事件とは、横浜港に近い武蔵国橘樹郡生麦村付近で薩摩藩主島津茂久の父島津久光の行列に遭遇したイギリス人たちを供回りの藩士たちが斬り付け、1名が死亡し、2名が重傷を負った事件です。 イギリス人は馬に乗っていました。行列の先頭にいた薩摩藩士が馬を降りて道を譲るように伝えましたが意思疎通は叶わず、イギリス人を乗せた馬は行列の中を逆行しました。久光の乗る籠に近付いたところで殺傷事件は起きました。 生麦事件は国際問題となり、イギリス側は江戸幕府に対して損害賠償請求を行い、幕府は賠償金を支払いました。イギリスはさらに薩摩落に対して報復すべく、大英帝国艦隊を薩摩湾に派遣して砲撃し、薩英戦争が始まります。 清を相手にした1840年の「アヘン戦争」で、イギリス軍は大勝利を収めていました。3回ほどの海戦で、清軍の戦死者2000人に対して、イギリス軍は7、8人という圧倒的な結果でした。地方政府に過ぎない薩摩藩を相手とする戦争などは推して知るべしでした。 実際、戦力においては薩摩藩と大英帝国艦隊では比較にならず、大砲の飛距離にも命中精度にも段違いの差がありました。

しかし、薩摩藩軍は強かったのです。砲撃を受けた鹿児島の街には損害がありましたが、藩主や住民の避難はほぽ完了しており、人的被害は少ないものでした。イギリス議会においては翌年1864年、鹿児島砲撃は一般市民を対象とした不当な戦闘行為であるとして問題となり、時のヴィクトリ ア女王が遺憾の意を表しています。薩摩藩軍は、大砲の射程は短いものの効率的な砲台の準備の下、砲撃を繰り返しました。その結果、薩摩側の被害も大きいものでしたが、イギリス側の被害のほうが大きく、指揮官を中心に多くの戦死者を出しました。 この結果は、イギリス側のみならず当時の世界を驚かせました。薩英戦争を経て、イギリスと薩摩藩は双方の関係を見直すこととなります。 幕藩体制は封建制度です。封建制度とは土地の支配権を分与することによって主従関係を形成するという制度であり、日本では、天皇から征夷大将軍に任命された徳川将軍が諸藩を統治するという形をとっていました。つまり、薩摩藩は領地統治において独立している状態です。 イギリスは薩摩藩を評価し、中央の江戸幕府よりも緊密な関係づくりを図りました。西郷隆盛が薩摩藩総大将として江戸に上り、幕臣 .勝海舟との間で江戸城の無血開城を取り決めた偉業の背景にはこうした経緯があります。 四国艦隊下関砲撃事件では長州藩が、薩英戦争では薩摩藩が、欧米列強と直接相対しました。これによって長州・薩摩の両藩が国際情勢のリアリズムを中央の徳川幕府よりもはるかに深く知ることになり、明治維新を牽引していくことになるのです。 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060206 144
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