何だかんだ言っても、やはりみんな幸福な生活を望んでいるのではないでしょうか。そのために、日々生活し、活動し、出逢いなどなど行っています。日常の生活で感じた事、実際に経験したことなど、徒然のままに、記録してみます。
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2024年2月6日火曜日
2024年2月5日月曜日
世界を唸らせた日本の造船技術
世界を唸らせた日本の造船技術
「蒸気船」という当時最先端の交通機関についても、当時の日本人は旺盛な好奇心と知識欲を見せました。
江戸幕府が西洋の中で唯一外交を保持していたオランダが 1855年、スームビング号という蒸気船を寄贈します。スームビング号は後に軍艦・観光丸として活躍することとなります。

1853年のペリー来航で軍用蒸気船を目の当たりにしたそのわずか数年後には、長崎海軍伝習所で勝海舟や佐賀藩士を中心に蒸気船に関係する技術の習得が始められていました。 燃料となる石炭の扱いなど細かなことも含め、初めて手にした鉄製の工具を握り、機関の細かな仕組みや操舵技術、修理法を学んでいったのです。
写真は復元された観光丸 当時オランダから長崎海軍伝習所に派遣されていた技官カッテンディーケは「 普段 は浴衣のような服に刀を差して 、夕方になると甲板から立小便をするような連中が実に熱心に 、しかもしつかり技術を身に付けていく」と驚きました 。 伝習所学生は勝海舟を船長としてスームビング号に乗り組み 、蒸気船を回航、ヨーロッパ人の手を借りることなく操縦して江戸に到達しました 。カッテンディーケは「とても信じられないことだ」と書いています 。 長崎海軍伝習所の伝習取締りだった幕臣の永井尚志は、軍艦の操舵ができるだけでは不十分だと考え、絶え間なく起こる船の破損や修理に対応するための造船所の必要を幕府に訴えます。 そこで1857年に生まれたのが「長崎造船所」の前身、日本初の造船所とも言える「長崎溶鉄所」でした。 当時の日本は、工具はもちろん補助的な器具もほとんど持っていない状態でした。必要品は逐一、オランダに発注して入手しなければなりません。ならば、必要品一切を製作できる造船所をつくつてしまおうという発想で、まさに「自分の国のことは自分の国でやる」という思想そのものでした。「長崎溶鉄所」は日本初の重工業の誕生ということでもありました。 造船所の周囲には、細かい部品を供給する小規模の製作工場が建つようになりました。「優秀な中小企業の集合体」という日本の産業の伝統は、幕末に始まっているのです。 当時、造船所を見学したイギリスの軍医レニーは、「オランダ人の管理下にあって機械類はすべてアムステルダム製であった。所内の自由見学を許された我々は隅々まで見て回ったが、なかなかの広さであった。そしてこの世界の果てに、日本の労働者が船舶用蒸気機関の製造に関する処々の仕事に従事しているありさまを見たことは確かに驚異であった」と述べています。 この造船所はやがて三菱重工に引き継がれ、戦艦「武蔵」などを建造することになります。 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060205 140

1853年のペリー来航で軍用蒸気船を目の当たりにしたそのわずか数年後には、長崎海軍伝習所で勝海舟や佐賀藩士を中心に蒸気船に関係する技術の習得が始められていました。 燃料となる石炭の扱いなど細かなことも含め、初めて手にした鉄製の工具を握り、機関の細かな仕組みや操舵技術、修理法を学んでいったのです。

写真は復元された観光丸 当時オランダから長崎海軍伝習所に派遣されていた技官カッテンディーケは「 普段 は浴衣のような服に刀を差して 、夕方になると甲板から立小便をするような連中が実に熱心に 、しかもしつかり技術を身に付けていく」と驚きました 。 伝習所学生は勝海舟を船長としてスームビング号に乗り組み 、蒸気船を回航、ヨーロッパ人の手を借りることなく操縦して江戸に到達しました 。カッテンディーケは「とても信じられないことだ」と書いています 。 長崎海軍伝習所の伝習取締りだった幕臣の永井尚志は、軍艦の操舵ができるだけでは不十分だと考え、絶え間なく起こる船の破損や修理に対応するための造船所の必要を幕府に訴えます。 そこで1857年に生まれたのが「長崎造船所」の前身、日本初の造船所とも言える「長崎溶鉄所」でした。 当時の日本は、工具はもちろん補助的な器具もほとんど持っていない状態でした。必要品は逐一、オランダに発注して入手しなければなりません。ならば、必要品一切を製作できる造船所をつくつてしまおうという発想で、まさに「自分の国のことは自分の国でやる」という思想そのものでした。「長崎溶鉄所」は日本初の重工業の誕生ということでもありました。 造船所の周囲には、細かい部品を供給する小規模の製作工場が建つようになりました。「優秀な中小企業の集合体」という日本の産業の伝統は、幕末に始まっているのです。 当時、造船所を見学したイギリスの軍医レニーは、「オランダ人の管理下にあって機械類はすべてアムステルダム製であった。所内の自由見学を許された我々は隅々まで見て回ったが、なかなかの広さであった。そしてこの世界の果てに、日本の労働者が船舶用蒸気機関の製造に関する処々の仕事に従事しているありさまを見たことは確かに驚異であった」と述べています。 この造船所はやがて三菱重工に引き継がれ、戦艦「武蔵」などを建造することになります。 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060205 140
2024年2月4日日曜日
「蒸気機関」を設計図だけで作り上げた日本人
「蒸気機関」を設計図だけで作り上げた日本人
イギリスのジェームズ・ワットが 18世紀の初頭につくられた炭鉱の排水用の蒸気機関を改良し、実用的で効率的な「蒸気機関」を完成させたのは、1760年代のことでした。
19世紀初頭、1804年にはトレヴィシックというイギリスの発明家が、実用には至らなかったもののスティーブンソンに先駆けて蒸気機関車を完成させています。
この蒸気機関の設計図が、幕末の日本に渡ってきました。実物ではありません。設計図です。
そして、その設計図だけを見て、幕末の日本の技術者は苦心惨憎の末、ついに蒸気機関をつくり上げたのです。
設計図を理解するだけでもたいへんなことです。
そもそも蒸気機関の実物を見たこともない中、鉄の塊から削り出してつくるシリンダーや、パッキングや弁などの未知の素材を使う部品まで、設計図から読み取ってエ夫に工夫を重ねました。
イギリスでは18世紀の産業革命を通じて加工機械や材料の開発を終えていたことを前提として蒸気機関の誕生がありました。そうした前提のない日本では、蒸気機関の製作は普通に考えればとても無理な話でした。
何事もしつこく追求して、諦めるということを知らない日本人の才能がなせる技でしょう。
幕末の技術者はとにかく類似の機械をつくり上げました。設計図によればその出力は12馬力でしたが、その6分の1の 馬力を出力する蒸気機関が完成したのです。
部品加工、必要素材の問題を考えれば、不十分な点は当然です。しかし、工業力というものがなかった日本で、設計図だけで蒸気機関をつくつてしまったという事実は驚くべきことです。
幕末当時、アジアで蒸気機関を製作しようなどと考えた国はもちろん日本だけでした。
『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より
R060204 137
2024年2月3日土曜日
「お寿司が苦手」勇気を出してフランス人が本場のお寿司に挑戦したら...
「お寿司が苦手」勇気を出してフランス人が本場のお寿司に挑戦したら...
今日はレオ君の夢だった職人さんから日本のお寿司について学ぶ企画になります!
本日のお店🍣
だるま寿司
山形県酒田市中町3丁目1−12
来日密着企画の第二弾!ゲストはフランスの高校生レオ君
来日〜帰国までの様子をどうぞお楽しみください✨
現在の企画『初来日密着』
特別な思いで日本に行きたいフランス人を応援する企画。日本に招待して観光以外にも、来日する方の人生や夢・交流・体験に視点を当てた企画になります!その人がどんな思いで日本に来て、文化や夢・人との絆を深める瞬間をお楽しみください
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