何だかんだ言っても、やはりみんな幸福な生活を望んでいるのではないでしょうか。そのために、日々生活し、活動し、出逢いなどなど行っています。日常の生活で感じた事、実際に経験したことなど、徒然のままに、記録してみます。
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2024年1月12日金曜日
第二章 心と思想 西洋人が驚愕する、日本人の道徳心
第二章 心と思想
西洋人が驚愕する、日本人の道徳心
焼野原からの復興を支えたものとは?
第二次世界大戦後、日本はそれまで世界のどの国も経験したことがないほどのスピードと規模を持って経済復興を果たしました。
特に規模の大きかった1945年3月の東京大空襲、8月の広島・長崎への原爆投下など、米軍の空爆によって主要都市ならびに工業都市が破壊され、大戦を通じて軍人戦没約230万人、民間戦没約80万人という数の国民を失った中からの復興でした。
復興は1950年代に始まり、1968年には当時の経済指標だったGNP(国民総生産)でソ連などの社会主義国を除く資本主義国中、アメリカに次いで第2位となりました。1960年代に池田勇人内閣が掲げた「所得倍増計画」のスローガンの下、全国的な重化学工業化が図られたのです。
復興の背景に、1950年に始まり1955年に休戦した「朝鮮戦争」による需要の増加、いわゆる朝鮮特需があったことは確かでしょう。
韓国と北朝鮮の間に起こったこの戦争には国連が介入しました。国連軍を主導した米軍が日本に大量の物資とサービスを発注したのです。
朝鮮特需は復興の大きなきっかけとなりましたが、日本の「奇跡的」とも言われた復興の要因はもちろんそれだけではありません。
1979年、アメリカで『ジャパン・アズ・ナンバーワン アメリカヘの教訓』(エズラ・ヴォーゲル、ハーバード大学出版局)が出版されます。原題は『Japan as Number One: Lessons for America』で、アメリカは日本に習え、としています。
経済指標の数字上ではアメリカの次でしたが、日本は復興開始後30年で実質上、世界一の経済大国となりました。この事実を、科学的に検証してみましょう。
多分に逆説的ですが、筆者は「経済復興の最大要因は、戦争によって日本がすべてを失ってしまった状態となったことにあったのではないか」と思っています。世界一の経済大国にまでなるには、やり直しだけではなく、新しいことを試みる必要がありました。
新しいことは常にあやふやで未確定です。新しいことをうまくやり遂げるためには、勢いのある生命力が必要です。そういう意味で、終戦によって古参の人たちが一旦退場し、新しい人たちが改めて社会の一線に登場することが重要でした。
明治日本の産業面での成長も同様のことが言えます。江戸時代に確立された商人層の利権と秩序が解体され、新規に登場した三井、三菱、住友といった財閥が明治日本の「富国」を担いました。
日本人経営者という話になると必ず名の挙がる松下幸之助も本田宗一郎も、創業こそは戦前でしたが、その新機軸の技術力と経営方針がより高く評価されたのは戦後のことでした。盛田昭夫と井深大がソニーの前身・東京通信工業株式会社を立ち上げたのは終戦の翌年、1946年のことでした。
松下幸之助、本田宗一郎、盛田昭夫、井深大は『ジャパン・アズ・ナンバーワン アメリカヘの教訓』の中で、日本的経営者の代表としてその手腕が分析され、世界が学ぶべき実業家の筆頭として紹介されています。
松下幸之助も本田宗一郎も盛田昭夫も井深大も、皆、技術者でした。松下幸之助の創業当初のヒット商品は二股ソケットで、大正時代を代表する大ヒット商品でした。
松下幸之助は後に『商売心得帖』や『経営心得帖』といった指南書を書き、その中で「お客様は王様」という自身の経営方針を解説しています。王様の言うことをごもっともと聞いているばかりではいけない、たまには苦言を言って気付いてもらうことが必要だ、という方針です。
松下幸之助は終戦の混乱期、内部留保を取り崩して人員整理を極力回避する、社員寄りの経営体制を採ったといいます。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策の一つである、日本経済の弱体化を狙った財閥解体の対象とされたものの事態は避けられ、松下幸之助が社長に復帰できたのは、その恩に報いようという社員たちの嘆願があったからでした。
本田宗一郎の戦後の活躍は、1948年、浜松に本田技研株式会社を設立し、オートバイの研究を開始したことに始まります。
本田宗一郎はとにかく性能のいいエンジンを開発することに注力しました。海外との自動車開発競争は勝負にならないだろうとする日本政府が輸入車に関税をかけることで対抗する中、本田宗一郎は性能で勝負し続け、ついに世界の自動車マーケットを唸らせるに至り、ホンダは国際企業へと発展するのです。
古い時代にとらわれないやり方と新しい技術を生み出す力が、経済復興の大きな要因となりました。言い方を変えれば、新しい技術は、使い古された発想が退場することから生じるのです。
『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より
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(2)R6 01/12【ゲスト:上畠寛弘】百田尚樹・有本香のニュース生放送 あさ8時! 第285回 in 台湾!
(2)R6 01/12【ゲスト:上畠寛弘】百田尚樹・有本香のニュース生放送 あさ8時! 第285回 in 台湾!
第一部は、配信の関係で、90度直立した画像となっております。
第一部はこちら
2024年1月11日木曜日
ポルトガルの性奴隷の要求をはねつけた豊臣秀吉 教科書では教えない
ポルトガルの性奴隷の要求をはねつけた豊臣秀吉 教科書では教えない
ここで、奴隷制に関する例を一つお話ししましょう。
いわゆる鉄砲は1543年、種子島に漂着したポルトガル人によって日本に伝えられたと言われています。戦国時代には50万丁ほどの鉄砲が存在し、当時の日本は世界有数の鉄砲保有国でしたが、この鉄砲は西洋から輸入したものではなく、すべて日本人の技術者が製作したものでした。
鉄砲自体は製作することができましたが、火薬の原料となる硝石(しょうせき)の確保がネックでした。化学的に抽出する方法も工夫されていましたが産出量が極少で、硝石の十分な確保については外国からの輸入に頼らざるをえなかったのです。
硝石はポルトガル商人の手によって日本に輸入され続けたわけですが、その付随条件としてポルトガルは、「日本人の奴隷を50万人ほど用意せよ」と言ってきたといいます。求められた奴隷の多くは女性でしたので、いわゆる性奴隷です。
これに対して、当事の政治のトップにいた豊臣秀吉は「日本人を奴隷とするなど許さない」と拒否した上で、さらに「カネは補償してやるから、これまでに連れ出した日本人もすべて返せ」とポルトガルに伝えました。
これを学校では教えません。日本の戦後教育は「日本を悪く言い、欧米を讃え上げる」という考えで統一されているからです。
また、前述したように日本では革命もなく、社会的な序列もとても緩やかでした。中国大陸では数々の王朝が興っては消えました。王朝の交代時には徹底した粛清が行われたと言われています。3世紀、漢王朝が滅ぼされた時には、首都城内に住んでいた漢人の9割もの人々が殺裁されたという事実があるようです。
天皇の御代が途切れたことはありませんが、政権交代というものは日本にもありました。平安期の摂関政治から院政、武家政権として平氏政権の誕生、後に今日では幕府体制と言われるものが誕生して鎌倉幕府から室町幕府、戦国の混乱期があって江戸幕府へといった具合です。
ただし、中国や他の大陸諸国における政権交代時に見られるような、一般人への殺戮をはじめとする残虐行為は日本では見られませんでした。戦国時代などの乱世もありましたが海外に比べると、天皇の宣下に基づく概ね平和的で合理的な交代が行われたのです。
江戸時代の大名行列も、庶民は道端にひれ伏しはするものの「まあ大名と言っても、昔はただのアンチャンだったからなあ」などとつぶやきながら、行列が行き過ぎるのを待っていたようです。
「駕籠(かご)に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋(わらじ)をつくる人」という慣用旬は、社会構造に対する日本人の考え方をよく示しているものかもしれません。人それぞれに役割があって、世の中はそれで成り立っているということを社会全体が理解しているのです。
むやみに事を荒立てることなく、穏やかにやり過ごす―――。
物事の本質を皆がわかっている、というのが日本の伝統なのです。
『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より
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