何だかんだ言っても、やはりみんな幸福な生活を望んでいるのではないでしょうか。そのために、日々生活し、活動し、出逢いなどなど行っています。日常の生活で感じた事、実際に経験したことなど、徒然のままに、記録してみます。
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2025年5月25日日曜日
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気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より
運動会
あくる日は好天気であった。朝のうちに銭湯に行った。板の間に三越呉服店の看板があリ綺麗な女が描いてある。どこか美禰子に似ているが、よく見ると目付きが違うし、歯並びがわからない。美禰子の顔で最も三四郎を驚かしたものが、目つきと歯並びである。与次郎によると、あの女は反っ歯(そっぱ)の気味だから、ああ始終歯が出るんだそうだ。三四郎には決してそうは思えないが、湯に浸かってこんなことを考えていた。
三四郎はあまリ運動好きではないが、運動会を見に行くことにした。与次郎から、競技よリ女を見に行くことに価値がある、美禰子もよし子も来るだろうと聞いていた。
しかし残念なことに行ってみると婦人席は別に柵で囲まれていた。どこかにいるだろうと見たら、前列の一番柵に近い所に二人は並んでいた。決勝点は美禰子とよし子が座っている真正面である。選手は一生懸命走っている。二人は熱心に競技を見ていた。計測係が黒板に記録を書いた。見ると野々宮さんがフロックコートを着て颯爽と務めている。やがて、野々宮さんは黒板を離れて二人の所に近づいて‘向こうから柵を挟んで何か言っている。美禰子は立ち上がった。野々宮さんの所に歩いて行く。嬉しそうに笑いに満ちた顔で話を始めた。するとよし子がまた立って柵の傍に寄っていった。
芝生の中では砲丸投げや、色々な競技が始まった。やがて二人の女は元の所に戻った。
三四郎はつまらなくなって会場を抜け出し、裏の築山まで来た。幕が張ってあるので回ってから丘の頂上まて来た。大きな石があるので、腰掛けて下の池をぼんやリ眺めていると、さっきの二人が並んで丘の裾を通っている。三四郎は上から二人を見下ろしていたが、やがて二、三歩降リていった。よし子が三四郎に気が付き、
「あんな所に‥‥‥」
と驚いて笑っている。美禰子も止まった。三四郎を見た。しかし、その眼は何も訴えていなかった。火の消えたランプのようであった。よし子が下から
「何故、競技を御覧にならないの」
と聞いたので、
「つまらないからやめてきたのです」と言った。
「それよリあなた方こそ‘何故出てきたのです。熱心に見ていたじゃあリませんか」
と言った時、美禰子は初めて少し笑った。三四郎はその笑いの意味がよくわからない。美禰子が
「この上に何か面白いものがあって?」
と尋ねた。この上には石があって、崖があるだけで面白いものはある筈がない。三四郎は
「何もないです」
と言った 。美禰子は
「そう」
と疑いを残したように言った 。
「ちょいと上がってみましょうか」
とよし子が快く言う 。
「あなた、まだここをご存じないの」
と美禰子は落ち着いた態度に出た。
「いいからいらっしゃいよ」
とよし子は先に上る。美禰子と三四郎はついて行った。よし子は丘の上で足を芝生の端まで出して、振リ向きながら
「絶壁ね」
と大袈裟な言葉を使い 、
「サッフォー(庄1でも飛び込みそうな所じゃあリませんか」
と言っている。
「あなたも飛び込んで御覧なさい」
と美禰子が言うと
「私? 飛び込みましょうか。でもあまリ水が汚いわね」
と言いながら 、こちらに 帰ってきた 。
やがて、女二人の間に用談が始まった 。
(注 3)サッフォー
紀元前六一二年頃小まれの古代ギリシャの女流詩人。美少年パオンとの悲恋のために海に身を投げたと伝えられる。後の文学者が好んで素材としているが、その代表的な一つであるドーデの「サッフォー」は漱石の蔵書(英訳本)にある。
気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250525
2025年5月24日土曜日
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学生集会 気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より
学生集会
与次郎は、今夜の会て、自分たちの大学の文科が不振てあること、その挽回策として適当な日本人教師を大学に一人入れること、皆が賛成して誰がよいかということになったら、その時に広田先生を持ち出すと言う。その時、三四郎は口添えをして極力広田先生を賞賛しろということであった。集会で衆議一決の暁には総代を選んで、総長の所に行く。
そこまて今夜中に運ばないかも知れないが、それは構わないと言う。三四郎は大体において賛成の意を表したが、そのやリ方は少し細工が過ぎて面白くないと思った。
正門を入リ構内に入ると、満天の星空を眺めて与次郎は、
「つまらんなあ‘我々は。空を眺めているとこの運動がいやになった。‥‥‥ 君は女に惚れたことがあるか。女は恐ろしいものだよ」
と突然、別のことを言い出した。
「明日もいい天気だ。運動会は仕合せだ。綺麗な女が沢山くる。ぜひ見に来るがいい」
学生集会所に入ると、もう学生は集まってあちこちで固まって話している。暫くして幹事の呼びかけで食事が始まった。
三四郎は、熊本で赤酒ばかリ飲んでいたことや、牛肉屋で牛肉か馬肉を見分けるために壁に叩きつけたことなどを思い出した。隣に座った大人しい男と話していると、三四郎は出身地のことを聞かれた。
「君はどこの高等学校ですか」
「熊本です」
「熊本は随分ひどい所だそうですね」
と言われた。
「ダーター・ファブラ‥‥‥」(注2)
などと言っている。向こうの方ては与次郎が、高い声で相手がこの言葉を聞く度に笑っていると、益々得意になって、
「ダーター・ファブラ、我々新時代の青年は‥‥‥」
とやっている。三四郎の筋向いで色白の品のいい学生が、笑いながら
「悪魔が乗リ移っている」
と冗談半分にフランス語を使って言った。しかし聞こえなかったと見えて、与次郎たちは、ビールのジョッキを揚げて乾杯をしている。隣の学生は、
「以前、あの人に淀見軒でライスカレーをご馳走になった」
と言った。やがてコーヒーが出て、一人が立つと演説が始まった。今夜の会は単に懇親のためだけでなく、一種重要な影響を生じる。我々は、古き日本の圧迫、新しい西洋の圧迫にも耐え得ぬ青年である。我々は西洋の文芸を研究するものであるが、囚われたる心を解脱せしめんがための研究である。文芸は人生の根本義に触れた社会の原動力である。社会は激しく動きつつあるが、我々も団結して文芸を発展させる必要がある。さっとこのような大演説であるが、集まった学生たちは大喝采であった。すると与次郎が突然立って、
「ダーター・ファブラ、大学にとうしても新時代の青年を満足させる人間を引っ張ってこなくちゃ。―—西洋人じゃ駄目だ」
と叫んだ。すると与次郎の隣の者が
「ダーター・ファブラのために祝杯を挙げよう」
と言い出した。
「もう一つ! 今度は偉大なる暗闇のために―――」
と誰かが言った。三四郎はダーター・ファブラの意味がわからなかった。三四郎が
「ダーター・ファプラーとは何のことだ」
と聞くと、与次郎は「ギリシャ語だ」とだけ答えた。
(注2) ダーター・ファブラ(dete fabula)(ラテン語)
他人事ではないの意。ホラティウスの「風刺劇」の中の言葉。与次郎は、この言菜の意味を知らなかった。また、「ギリシャ語」というのは誤りで、本当はラテン語である。(岩波書店『漱石全集』第五巻『三四郎』)。ここでは、言葉の意味より、学生が新しい単語を習うと意味もなく使いたがるが、景気づけのために規制を上げる言葉ではないか。
気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250524
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