
妻を失った頃、日産自動車では、中東日産自動車を立ち上げる準備が、進んでいた。
若い夫も、その駐在要員として、カウントされていたと思う。中近東を担当していた若い夫にとって、それは、自然な流れだった。妻のことが、なければ、若い夫は、家族を連れて、中東のどこかの街に、駐在していたかもしれない。砂漠の国の、日本人駐在員の家庭。そういう、もう一つの人生も、あり得た。
けれども、そうは、ならなかった。
家庭の事情から、若い夫は、国内営業へ、異動を願い出た。ただ、国内営業に異動した、ということだけは、確かだった。
直納部、という部署だった。
どこの自動車会社にも、ある部署である。個人のお客様に、車を売るのではない。官公庁や、企業や、在日米軍などに、車両を、直接、納める。国内販売の、メインの仕事ではない。けれども、メーカーが、自ら、対応しなければならない、特殊な仕事だった。
一般の販売会社では、扱えない車両がある。シビアな予算管理の中で、特殊な一台を、採算を合わせて作るには、メーカーが、直接、動くしかない。それぞれの企業が、それぞれの用途のために、専用の仕様を、必要としている。それを、一つ一つ、企業と打ち合わせながら、作り込んでいく。
トラックをベースにした、高所作業車。電柱を立てるための、穴掘り建柱車。電電公社向けの、特殊な車両。そして、官公庁向けの、救急車。
若い夫が、担当したのは、そういう仕事だった。
ここで、若い夫の、それまでの経験が、思いがけず、役に立った。村山工場で、生産現場に、いた経験である。車が、どういう工程で、どのように作られるのか。図面が、どのように、現場で、形になっていくのか。それを、若い夫は、体で、知っていた。特殊な仕様を、企業と打ち合わせ、それを、生産現場が、実際に作れる形に、翻訳していく。その橋渡しが、生産現場を知る若い夫には、できた。
官公庁向けの救急車の仕事は、後年、高規格救急車の規格開発へと、繋がっていく。けれども、それは、まだ、先の話である。この頃の若い夫は、ただ、目の前の、一台一台の特殊車両を、企業と打ち合わせ、現場と擦り合わせ、作り込んでいた。
若い夫は、仕事に、打ち込んだ。
いや、打ち込んだ、という言葉は、少し、違うかもしれない。
妻を失った、その悲しみを、爆発させる場所が、仕事しか、なかった。それが、本当のところだった。家に帰れば、妻は、いない。四歳の息子が、いる。けれども、息子の前で、悲しみを、爆発させるわけには、いかない。父と母が、息子を見ていてくれている。その前でも、悲しみを、見せるわけには、いかない。
悲しみを、悲しみとして、外に出す場所が、どこにも、なかった。
だから、若い夫は、仕事に、悲しみを、ぶつけた。一台一台の特殊車両を、作り込む、その細部に、自分のすべてを、注ぎ込んだ。企業との打ち合わせに、現場との擦り合わせに、図面の一本の線に、悲しみを、変えていった。仕事の中でなら、爆発させても、誰も、傷つけない。仕事の中でなら、自分の中の、行き場のない何かを、形のあるものに、変えることができた。
後年、振り返って、思う。
あの頃、若い夫を、支えていたのは、仕事だった。悲しみを、爆発させる場所が、仕事しか、なかったからこそ、若い夫は、仕事の中で、深く、生きた。特殊車両の、一台一台に、自分の悲しみと、自分の生命力を、注ぎ込んだ。それが、結果として、若い夫の、新しい専門性に、なっていった。
喪失が、新しい仕事を、深くした。悲しみが、専門性に、変わっていった。
あの病室の窓の桜のように、形を変えて、悲しみは、別のものに、なっていった。
生かされて、今を、存在する。
妻を失った悲しみを、直納部の仕事の中で、一台一台の特殊車両に、注ぎ込んでいた若い夫を、四十年経った今、自分は、確かに、覚えている。
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