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2026年5月14日木曜日

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第四章・覚醒の時代 連載第六十七話 悪性

第四章・覚醒の時代 連載第六十七話 悪性
第 四 章 ・ 覚 醒 の 時 代
第 六 十 七 話

悪性

― 受 話 器 の 向 こ う で 、 泣 き じ ゃ く る 声 ―

本社のフロアで、自分は、ふだんと変わらない朝を過ごしていた。

前日に届いた書類に目を通し、机の上の電卓を、いつもの手つきで叩いていた。中近東部の仕事は、その日も、淡々と進んでいた。妻は、生検の結果説明を聞きに、一人で病院に行っていた。一人で行かせるべきか、付き添うべきか——そんなことを、当時の自分は、深くは考えていなかった。妻は、しっかりした人だった。一人でも、医師の説明をきちんと受け止めて、家に戻って自分に伝える——そういう段取りで、自分は、その朝、ふだんの席に着いていた。

机の上の電話が、鳴った。

受話器を取った。電話の向こうで、人が、泣きじゃくっていた。最初、誰の声か、自分には分からなかった。それが妻の声だと気づくのに、わずかな間があった。妻が、こんなふうに泣くのを、自分は、それまで聞いたことがなかった。具体的な言葉は、ほとんど聞き取れなかった。ただ、泣き声の合間に、はっきりとした一つの言葉が、自分の耳に届いた。

「悪性だった」

たった二字だった。それで、すべてが告げられた。受話器を持ったまま、自分は、しばらくの間、何も言えなかった。何かを言ったような気もするし、何も言えないまま、ただ妻の泣き声を聞いていただけのような気もする。半世紀近く経った今、自分の口から、その時何が出ていたかは、もう、はっきりとは思い出せない。

受話器を置いた時、目の前が、真っ暗になっていた。

机の上の書類も、電卓も、フロアの蛍光灯の白い光も、すべてが、急に遠くなっていた。自分の身体の中で、何か重い物が、ゆっくりと底のほうに落ちていく感覚があった。その時、隣の島の同僚から、声をかけられたことを、覚えている。「顔色が変わっているぞ」と、その人は言った。自分は、何と返事をしたのか、覚えていない。ただ、その言葉で、自分の顔から、確かに血の気が引いていることを、初めて自覚した。

◇ ◇ ◇

一人で行かせるべきではなかった——という後悔が、ふつふつと湧き上がってきた。

あの結果説明の部屋で、妻は、たった一人で、医師の言葉を受け止めたのだった。隣に、自分はいなかった。「悪性」という二文字が、医師の口から出た瞬間、妻は、誰の手も握れずに、一人でその場に立っていた。電話をかけてくる前の、待合室か、廊下か、どこかで、妻は、一人で泣いたのだろう。それから、ようやく、自分のところに、電話をしてきたのだった。

その日から、自分の中で、優先順位は、はっきりと決まった。

妻を、一人ぼっちにしてはいけない——そう、心に誓った。それ以降、定期検査も、専門医の診察も、できる限り、付き添うようになった。本社の仕事を、一部、調整してもらわなければならない場面も、出てきた。それで社業の一部がおろそかになることも、確かにあった。それでも、自分の中で、揺らぎはなかった。当時の上司や同僚の方々が、そのことについて、どうおっしゃったか——もう、はっきりとは思い出せない。ただ、妻のいない時間に、自分が机の前に座っていて、何かを成し遂げる、ということが、もう、自分の中で、意味を持たなくなっていた。

◇ ◇ ◇

手術の日程が、決まった。

乳房の腫瘍摘出術——切除術と呼ばれる手術だった。担当医と、何度かの面談を重ねて、日程が固まった。その日付を聞いた瞬間、自分は、しばらく、その数字をじっと見ていた。手術の予定日は、長男・健慈の、誕生日の翌日だった。新しい命が一年を迎える、その翌日に、母親の身体に、メスが入る——二つの日付が、そのように、続けて並んでいた。偶然、と言えば偶然だった。しかし、自分にとっては、ただの偶然以上の重みが、その並びには、含まれていた。

そして、もう一つ、思いがけないことが、明らかになった。

術前の検査と、医師との面談の中で、妻のお腹に、第二子がいることが、分かった。その時の妻の表情を、自分は、今もはっきりと覚えている、と書きたいところだが、実のところ、その細部は、もう霞のかなたにある。ただ、医師のお口から出た言葉は、はっきりとしていた。「この子を残したまま、手術はできません」——そう、医師は告げた。妊娠中の母体は、成長ホルモンが多量に分泌される。その影響で、がん細胞も、勢いよく育ってしまう。母体を救うためには、お腹の中の命を、一度、還さなければならない——医師の説明は、そういう内容だった。

妻は、まだ生まれてもいない命に向かって、泣きながら、詫びを入れていた。

どこの場所だったか、家のちゃぶ台の前だったか、病院の控えの部屋だったか、もう、はっきりとは思い出せない。ただ、妻が、お腹に手を当てて、何度も何度も、声に出して詫びていたことを、自分は、半世紀近く経った今も、覚えている。「ごめんね」「ごめんね」——その短い言葉が、何度も繰り返されていた。自分は、その傍らで、何もできなかった。妻の肩に手を置いていたのか、ただ黙って横に座っていたのか、それすらも、もう、はっきりとは思い出せない。ただ、若い夫婦の手元から、生まれることのなかった命が、一つ、静かに還されていった——その輪郭だけが、今も、消えずに残っている。

泣く泣く、第二子をあきらめ、切除術を受けることになった。

◇ ◇ ◇

長男の誕生日の翌日、妻は、その病院の手術室に入った。

朝、病室で、妻を送り出した。看護師の方々が、ストレッチャーを押して、廊下を遠ざかっていった。妻は、ストレッチャーの上で、こちらを向いて、小さく頷いた。それ以上の言葉は、お互いに、なかった。ストレッチャーの音が、廊下の角で、聞こえなくなった。自分は、待合室の椅子に戻った。

長い時間が、待合室を流れていった。

窓の外には、冬の白い光が、廊下の床にまで差し込んでいた。誰かが廊下を歩く音、車椅子の車輪の音、看護師の方々が交わす低い声——そういう、病院の日常の音が、自分の耳元を通り過ぎていった。自分は、ほとんど何も考えていなかったように思う。考えようにも、考えるべきことが、もう、自分の中で、整理がつかなくなっていた。机の上の電話が鳴ったあの朝から、第二子をあきらめた日まで、わずかな時間で、あまりに多くのことが、起きていた。

担当医が、手術室から出てこられた。

手術着のままの先生は、自分のほうに歩いてこられて、静かにおっしゃった。「患部は、きれいに切除できました」——そして、続けて、もう一つの言葉を、はっきりと付け加えてくださった。「脇のリンパには、転移は認められませんでした」

その二つの言葉を聞いた瞬間、自分は、ほっと、胸を撫で下ろした。

手術は、うまくいった——若い自分は、その時、確かに、そう思った。机の上の電話が鳴ったあの朝から、ようやく、息ができるようになった気がした。妻は、助かった。家には、長男が待っている。これから、また、三人の生活が、戻ってくる——そう、自分は、その時、信じた。

◇ ◇ ◇

あの日の安堵を、自分は、半世紀近く経った今も、はっきりと覚えている。

そして、半世紀近く経った今、その安堵が、何を見落としていたかを、自分は、もう知っている。担当医が「脇のリンパには転移は認められませんでした」とおっしゃった、あの言葉。その言葉の中に、すでに、後の長い道のりの種が、撒かれていた。しかし、若い自分は、その種に、まだ気づかなかった。気づきようも、なかった。受話器を置いた朝の、目の前が真っ暗になった、あの感覚。手術室から出てこられた担当医のお言葉を聞いて、ほっと胸を撫で下ろした、あの安堵。その二つの間に、若い男が知らずに通り抜けていたものが、いくつもあった。

第四章「覚醒の時代」は、覚醒の物語というよりも、覚醒の前夜の、深い眠りの物語から、始まる。

机上の理論が、生身の人間の体を支配する——その重い順序を、若い男は、第三章の終わりで、骨で知った。骨で知ったはずだった。しかし、骨で知った、ということと、その知をもって生きる、ということの間には、まだ、長い距離があった。覚醒は、一度の電話と、一度の手術と、一度の安堵では、まだ訪れていなかった。覚醒は、もっと深い場所で、もっと痛みを伴うかたちで、後の章で、若い男に届くことになる。その手前の、第六十七話の朝の机の上の電話と、病院の待合室の冬の光を、自分は、ここに、静かに記しておく。

悪性、という、たった二字の言葉から、その新しい章は、始まった。

(つづく) R080514

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◆ 世界を唸らせた、日本の造船技術 ◆ 『かけがえのない国 誇り高き日本文明』武田邦彦著 MdN出版(R05年)より

◆ 世界を唸らせた、日本の造船技術 ◆ 「蒸気船」という当時最先端の交通機関についても、当時の日本人は旺盛な好奇心と知識欲を見せました。 江戸幕府が西洋の中で唯一外交を保持していたオランダが1855年、スームビング号という蒸気船を寄贈します。スームビング号は後に軍艦・観光丸として活躍することとなります。 1853年のペリー来航で軍用蒸気船を目の当たりにしたそのわずか数年後には、長崎海軍伝習所で勝海舟や佐賀藩士を中心に蒸気船に関係する技術の習得が始められていました。 燃料となる石炭の扱いなど細かなことも含め、初めて手にした鉄製のエ具を握り、機関の細かな仕組みや操舵技術、修理法を学んでいったのです。 当時オランダから長崎海軍伝習所に派遣されていた技官カッテンディーケは「普段は浴衣のような服に刀を差して、夕方になると甲板から立小便をするような連中が実に熱心に、しかもしつかり技術を身に付けていく」と驚きました。 伝習所学生は勝海舟を船長としてスームビング号に乗り組み、蒸気船を回航、ヨーロッパ人の手を借りることなく操縦して江戸に到達しました。カッテンディーケは「とても信じられないことだ」と書いています。 長崎海軍伝習所の伝習取締りだった幕臣の永井尚志は、軍艦の操舵ができるだけでは不十分だと考え、絶え間なく起こる船の破損や修理に対応するための造船所の必要を幕府に訴えます。 そこで1857年に生まれたのが「長崎造船所」の前身、日本初の造船所とも言える「長崎溶鉄所」でした。 当時の日本は、工具はもちろん補助的な器具もほとんど持っていない状態でした。 必要品は逐一、オランダに発注して入手しなければなりません。ならば、必要品一切を製作できる造船所をつくってしまおうという発想で、まさに「自分の国のことは自分の国でやる」という思想そのものでした。「長崎溶鉄所」は日本初の重工業の誕生ということでもありました。 造船所の周囲には、細かい部品を供給する小規模の製作工場が建つようになりました。「優秀な中小企業の集合体」という日本の産業の伝統は、幕末に始まっているのです。 当時、造船所を見学したイギリスの軍医レニーは、「オランダ人の管理下にあって機械類はすべてアムステルダム製であった。所内の自由見学を許された我々は隅々まで見て回ったが、なかなかの広さであった。そしてこの世界の果てに、日本の労働者が船舶用蒸気機関の製造に関する処々の仕事に従事しているありさまを見たことは確かに驚異であった」と述べています。 この造船所はやがて三菱重工に引き継がれ、戦艦「武蔵」などを建造することになります。 『かけがえのない国 誇り高き日本文明』武田邦彦著 MdN出版(R05年)より R080514

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