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何だかんだ言っても、やはりみんな幸福な生活を望んでいるのではないでしょうか。そのために、日々生活し、活動し、出逢いなどなど行っています。日常の生活で感じた事、実際に経験したことなど、徒然のままに、記録してみます。
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2026年5月13日水曜日
R080513(水)午前9時50分配信開始 【ニッポンジャーナル】田北真樹子×江崎道朗 最新ニュースを解説!
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第三章・世界の時代 連載第六十六話 しこり
しこり
多摩の家の食卓は、二人の毎日に、すっかり馴染んでいた。
朝、出勤前に、二人で朝食を取る。夜、帰ってきて、二人で夕食を取る。新婚旅行から戻った頃の、まだ慣れない感覚は、いつの間にか、当たり前の風景に変わっていた。妻の作る朝食の匂いが、玄関を出る前の自分の背中に、いつも届いていた。夜、家の鍵を開ける時には、部屋の中の灯りが、もう先に灯っていた。一人で食卓に着いていた以前の生活が、半分、もう思い出せないくらいに、遠くなっていた。
そして、ある冬の日に、長男が生まれた。
昭和五十八年の一月——多摩の家に、新しい命が一つ、加わった。男の子だった。最初に妻がつけた名前は、健慈、と書いた。大きく、健康に、そして優しく育ってほしい、という願いを、妻が一字一字、考えてつけた名前だった。出産のあと、産院のベッドに横たわった妻が、その小さな顔をじっと見ていた表情を、自分は今も覚えている。母になった妻の顔は、それまでの妻の顔とは、また違う種類の静けさを湛えていた。柏のご両親も、駆けつけてくださった。多摩の家には、ベビーベッドと、白い肌着の山と、若い両親の少しぎこちない手つきが、毎日入り混じって、にぎやかに動いていた。
本社のフロアの仕事と、家の食卓の往復の中で、自分は、何か新しい勉強を始めようと思っていた。
中近東部の仕事は、日々の慌ただしさはあったが、それだけでは、自分の中の何かが、少し物足りなくなっていた。当時、サラリーマン向けに、各分野の著名人を毎週のように招いて、講演会を開いている組織があった。会員になれば、毎週の講演を聴けるという仕組みだった。仕事の合間に毎週通うのは、現実には難しかった。それで、その組織が、講演の内容をカセットテープに吹き込んで、希望者に頒布する仕組みも持っていた。自分は、そのテープを、定期的に取り寄せることにした。
通勤途上の電車の中が、自分の聴講の場所になった。
朝、家を出てから本社に着くまでの間、ヘッドフォンの中で、いろいろな分野の専門家の声が、自分に話しかけてきた。経済の話、政治の話、技術の話、海外情勢の話。テープの中の声は、講演会場の静けさと、聴衆の咳払いと、講師の言葉の余白までを、そのまま運んできた。電車の窓の外を流れていく景色と、テープの中の声が、自分の耳の中で、毎朝交差していた。
ある日、一年前の講演テープが、自分の手元に届いた。
テーマは、為替相場の予想、というものだった。為替の動きを、ある独自の方法で予測する、という講演だった。聴き始めて、自分は、ふと、ある思いつきをした。一年前の講演である。だとすれば、その講演で予測されていた一年間の為替の動きと、その後実際に起きた為替の動きを、突き合わせてみることができる、はずだった。会社の資料室にも、為替の記録は残っていた。当時の自分は、輸出の現場にいたから、為替の動きには、毎日の仕事の中で触れていた。
突き合わせてみて、自分は、息が止まりそうになった。
テープの中の予測は、その後の為替相場の動きと、ほぼぴったりと一致していた。時間軸も、金額も、何か月先のいつ頃にこのくらいの水準まで動く、という細部までが、現実の動きとほぼ重なっていた。普通であれば、こんなことは、あり得ない。為替相場というものは、世界中の様々な要因が絡み合って動いていて、誰にも先のことなど分からない、というのが、当時の常識だった。それが、何故、一年前の講演で、ここまで正確に予測できたのか——自分の中の何かが、その不思議さに、強く揺さぶられた。
自分は、その組織の事務局に、問い合わせの電話をかけた。
講演をされた先生のお名前は、テープの冒頭で告げられていた。牧正人史先生、というお名前だった。牧先生のオフィスがどちらにあるのか、教えていただけないでしょうか——電話の向こうの担当の方は、少し意外そうな声で応じてくださった。事務局として連絡先を勝手にお教えするわけにはいかないが、先生にお問い合わせの旨を伝えてから、改めてご連絡します——という、丁寧な対応だった。数日後、先生のオフィスの連絡先を、教えていただいた。自分は、すぐに先生のオフィスに電話をかけ、お会いしたい旨をお伝えした。
先生のオフィスは、こぢんまりとした、しかし整然とした事務所だった。
部屋の隅には、大きな機械が一台、置かれていた。当時、オフコン、と呼ばれていた、業務用のコンピュータだった。今のパソコンに比べれば、一回り大きく、表示は文字主体の、簡素なものだったが、当時としては、企業の事務処理を担う、しっかりした性能の機械だった。先生は、五十代の半ばくらいの、落ち着いたお声の方だった。出された名刺には、研究所の名前が記されていた。先生は、まず、自分が為替の予測テープに驚いて訪ねてきた経緯を、静かに聞いてくださった。それから、ご自身の研究の輪郭を、ゆっくりと話してくださった。
先生は、それを「マシレ予測」と呼んでおられた。
人の名前、組織の名前、国の名前——固有名詞には、それぞれ固有の波動のようなものがあって、その波動を数値化して時系列に並べると、その人や組織の運勢の流れが、グラフとして見えてくる、というのが、先生のお考えだった。為替相場も、米ドル、円、ポンドといった通貨の名前を、固有名詞として扱えば、同じように予測できる、というのが、一年前の講演の中身だった。先生は、長年の研究の中で、独自のソフトを、ご自身で書き上げておられた。そのソフトを、目の前のオフコンで動かしておられた。
先生は、技術は国のために使うべきだと考えておられた。当時、福田赳夫先生や、田中龍夫先生といった、自民党の重鎮の方々のお手元にも、先生のグラフは届けられていた。通産省の高官にも、大手企業の社長や会長の方々にも、先生は、経済の流れの予測情報を、定期的にお流ししておられた。だから、基本的には、個人の人生についてグラフをお出しすることは、しないことにしておられる、ともおっしゃった。自分は、その話を、ただただ畏れ入って伺っていた。一介のサラリーマンの自分が、こんな先生のお時間をいただいてよかったのだろうか——そういう恐縮の気持ちが、その時の自分の中にあった。
ところが、先生は、思いがけないことをおっしゃった。
「わざわざここまで足を運んでくださったのですから、特別に、あなたとご家族のグラフを、お出ししましょう」——先生は、そう静かに言ってくださった。有料です、と先生はおっしゃったが、料金については、自分は、二つ返事で承諾した。あの予測テープの一致を、実際に経験させていただいた以上、自分の家族のグラフも、ぜひ拝見したかった。先生は、机に向かわれ、オフコンの前に座られた。キーボードを、ゆっくりと、しかし確かな手つきで叩かれた。機械が、低い音を立てて、計算を始めた。プリンタが、紙を一枚ずつ、ゆっくりと吐き出していった。
自分のグラフは、決して、明るい形をしていなかった。
線の上下を指でなぞりながら、先生は、ご自身の解説を加えてくださった。自分は、その時、思わず一つのことを口にした。自分は、子供の頃から、何かと艱難辛苦に遭うことが多かった。父母に苦労をかけてきた負い目もある。学業も、思うに任せないことが多かった。社会人になってからも、自分の不器用さで、辛い目に遭ってばかりいるような気がする——半ば独り言のように、自分は、先生の前で、そう打ち明けていた。
先生は、自分の名前を、もう一度、紙の上に書き直された。
それから、画数を一つ一つ確認しながら、ある一つの数を、丸で囲まれた。「二十八画です」と、先生は静かにおっしゃった。二十八画は、姓名科学の中で、すべての艱難辛苦を呼び寄せるとされる、最も厳しい字画のひとつなのだ——先生は、そう続けられた。先生のお言葉に、自分は、しばらく返す言葉がなかった。それまでの自分の半生で、辛い思いをしてきた一つ一つが、自分の中で、静かに腑に落ちていった。原因は、自分の能力でも、努力の不足でもなかった。名前の中の、たった一つの画数が、自分の人生に、それだけの重みを及ぼしていた——という説明が、なぜか、自分には、すんなりと入ってきた。
続いて、妻のグラフが、プリンタから出てきた。
先生は、その紙を、両手でそっと持ち上げて、しばらくじっとご覧になっていた。それから、机の上に静かに置いて、自分のほうを見られた。先生のお顔の表情が、それまでとは、少し変わっていた。
「奥様の健康が、いずれ、きわめて厳しい状態になります」と、先生は、静かに、しかしはっきりと、おっしゃった。
グラフの線が、ある時期から、急に下方に折れ曲がっていた。先生は、その時期がいつ頃に当たるかを、月の単位で、具体的にお示しくださった。何が原因とも、先生は、はっきりとは言われなかった。ただ、健康面のグラフが、これだけ深く落ち込むのは、放っておくと、相当に厳しいことになる——という意味のことを、繰り返しおっしゃった。早めに、医師に相談されたほうがよい。一度、人間ドックに入られたほうがよい——先生は、そうもおっしゃった。
自分は、その時、何と返事をしたのか、もう記憶が定かでない。
ただ、自分の中で、何か重い物が、ゆっくりと底のほうに沈んでいく感覚があった。占いというものを、自分は、それまで、愚の骨頂と思って生きてきた。非科学的なものは信じない、というのが、若い頃からの自分の立場だった。しかし、目の前の先生は、占いの先生というよりは、研究者だった。為替相場の予測の一致は、自分自身が、この目で確かめた事実だった。先生のお言葉を、頭から否定する根拠は、自分の中には、もう、なかった。
家に帰って、妻にどう伝えたかは、もう覚えていない。
グラフのことを、そのまま見せたのか、見せなかったのか。先生のお言葉を、どこまで伝えて、どこまで伝えなかったのか。半世紀近く経った今となっては、その時の自分の口から出た具体的な言葉は、もう、思い出せない。ただ、二人で人間ドックに入ろう——という話に、自然と落ち着いた。当時、若い夫婦が一緒に人間ドックに入る、というのは、まだ、それほど一般的なことではなかった。それでも、妻は、特に渋ることもなく、応じてくれた。長男の健慈が、まだ一歳にならない頃のことだった。
昭和五十八年の十二月二十日、二人で、人間ドックに行った。
朝早くに、検診の施設に着いた。受付を済ませて、それぞれの検査室に分かれた。血液検査、心電図、レントゲン、問診——一つずつ、淡々と進んでいった。妻のほうが、自分よりも、検査の項目が多かった。婦人科系の検査もあったので、その分、時間がかかっていた。自分は、自分の検査がすべて終わった後、待合室で、妻が出てくるのを待っていた。窓の外には、冬の弱い日差しが、白く差し込んでいた。
結果説明の部屋に、二人で呼ばれた。
担当の医師は、妻のカルテと、いくつかのレントゲン写真を、机の上に並べておられた。型どおりの説明が、しばらく続いた。血圧は問題ない、血液の数値も大きな問題はない、心電図も問題ない——一つずつ、医師の指が、項目を辿っていった。それから、医師の指が、ある一点で止まった。
「奥様の胸に、しこりが認められます」と、医師は、淡々とおっしゃった。
触診の所見と、超音波の画像と、両方からの確認だった。大きさはまだ小さい。良性の可能性も、もちろんある。ただ、念のため、専門の医療機関で精密検査を受けられたほうがよい——医師の言葉は、その種の場面の医師としての、ごく標準的な口調だった。妻は、隣の席で、姿勢を崩さず、医師の説明をじっと聞いていた。自分は、机の上のレントゲン写真の白い影を、ぼんやりと見ていた。先生のオフコンが描き出していたグラフの、あの下方に折れ曲がった線が、目の前のレントゲン写真の小さな影と、確かに一つに重なっていた。机上の理論が、生身の人間の体を、すでに支配し始めていた。
結果説明の部屋を出たあと、妻が、廊下で、一度だけ立ち止まった。
妻は、自分のほうを向いて、静かに微笑んだ。それから、ぽつりと言った。「健慈君が大きくなるまで、生きなければいけませんね」——その短い一言を、妻は、特に力を入れずに、ごく自然に口にした。母として、もう既に立っている人の言葉だった。当時の自分は、その言葉の重みを、半分くらいしか、受け取れていなかったかもしれない。半世紀近く経った今、その言葉を、繰り返し、自分の中で噛みしめている。
その夜、多摩の家に帰って、二人は、いつもと変わらない夕食を取った。
健慈は、もう寝かしつけられていた。妻は、台所で、いつもと同じ手つきで、味噌汁を椀に注いでいた。自分は、ちゃぶ台の前に座って、妻の背中を見ていた。机上の理論が、生身の人間の体を支配する——若い自分は、その日、それを骨で知った。占いを愚の骨頂と思っていた頭の中の常識は、もう、立つ場所がなくなっていた。それは、頭で受け取るには重すぎる種類の知だった。身体のほうが、先に分かってしまったのだった。
後に、自分は、家族全員の名前を組み直すことになる。
名前には、それぞれ、引き寄せる力がある——というのが、牧先生のお考えの中の、もう一つの柱だった。同じ波動を持つ名前は、類は友を呼ぶ形で、一つの場所に集まることがある。航空機事故の搭乗者名簿などを丹念に調べると、そのような兆候が、明確に見えてくる、と先生はおっしゃっていた。妻は、健康面に厳しい線を抱えていた。自分は、二十八画という艱難辛苦の字画を抱えていた。家の中の二人とも、それぞれの形で、つらい場の引力の中にいた。
愛する妻を救えるなら、何でもよかった。
妻のがんが、後にはっきりとした形で確かめられた時、自分は、子も、自分も、両親までを含めた家族全員の名前を、変えようとした。間に合うかどうか、ぎりぎりの段階だった。父にも母にも、相談した。一家全員の名前を組み直す、というのは、ふつうに考えれば、突拍子もない話だったろうと思う。それでも、両親は、息子の話を、最後まで聞いてくださった。その後の経緯は、また別の章で、書く。
第三章「世界の時代」を、この一話で、静かに閉じる。
本社のフロアに着いた若い男が、仕事の風景の中を歩き、失恋と寂しさの底を一度通り、運命の出会いを得て、新婚旅行の輝きを通り抜けて、そして、机上の理論が、生身の人間の体を支配する——その厳しい順序を、骨で知るところまで来た。占いを愚の骨頂と思っていた若い男が、半世紀をかけて、姓名科学を仕事にすることになる。その出発点は、通勤電車の中のカセットテープと、牧先生の事務所のオフコンの音と、人間ドックの白い部屋と、廊下で立ち止まった妻の口から出たひとつの短い言葉に、すべて含まれていた。
世界は、机上の理論と、生身の身体の、二つの層からできていた。
そして、机上の理論のほうが、生身の身体を、深いところで支配していた。若い自分が、その日骨で知ったのは、この順序のことだった。それを骨で知ってしまった人間が、その後の人生を、どう生きていくか——その長い道のりは、ここから、別の章として、また始まる。
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第三章・世界の時代 連載第六十五話 新婚旅行
新婚旅行
結婚式の会場は、父の勧めで、東電関連の施設を借りることになった。
当時、日産自動車と東京電力の間に、何らかの取引のような関係があったのだろう。父が、自分の知らないところで話を進めてくれて、ある日、「式の場所は、東電の施設を借りられる」と教えてくれた。両家の親族の招待にも、ちょうどよい広さの会場だった。父の段取りに、自分は素直に従った。妻となる鈴木洋子も、同じく素直に応じた。式の準備は、両親と、両家の親族の差配で、つつがなく進んでいった。
東電の施設を借りる、というその段取りを聞いた時、自分の中で、ある古い記憶が、ふっと立ち上がってきた。
そういえば、自分は、若い頃に、父の勧めで東京電力の入社試験を受けたことがあった。大学の最終学年の頃である。父は、息子の進路について、いくつかの選択肢を示してくれていた。日産自動車も、その一つだった。東京電力も、その一つだった。父の勧めるままに、自分は、両方の試験を受けに行った。
東電の試験会場で、英語の問題が出た。
問題用紙を開いてみると、自分にとっては、それほど難しい問題ではなかった。設問を読み、文章を読み、答えを書いていく。手が動くままに、自分は問題を進めていった。最後の設問まで終わって、もう一度全体を見直しても、修正すべき箇所は、ほとんど見当たらなかった。完璧に解けた、というのが、自分の中の感覚だった。
それで、自分は、試験会場を出た。
他の受験者より、三十分以上早かった、らしい。当時の自分には、そういう感覚はなかった。試験は、解き終わったら出るものだ——という、ごく単純な理屈で、自分は席を立った。会場の外に出て、深呼吸をして、駅の方角に歩き始めた。それで、その日の試験は、自分の中では終わっていた。
後日、東電の人事部から、父に問い合わせがあったらしい。
「お子さんは、なぜ試験を切り上げて、三十分以上早く出て行かれたのでしょうか」——人事部の担当の方は、そう尋ねてきたのだという。父は、自分にその話を伝える時、少し困ったような顔をしていた。父からそれを聞いた時の、自分自身の顔を、自分はもう思い出せない。たぶん、不思議そうな顔をしていたのだろうと思う。完璧に解けたから出た——それ以上でもそれ以下でもない、自分の中の単純な動機を、説明する言葉が、当時の自分にはなかった。
英語の試験の成績は、上位数名に入っていたらしい。
「もったいない」と、人事部の方は言ったという。試験成績だけ見れば、もう少し時間をかけて、他の科目も丁寧に取り組めば、合格の可能性は十分にあった——そういう含みのある言葉だった。父は、それを息子に伝えた。自分は、ふうん、と思っただけだった。東電に入る道は、その時の自分の選択の中では、もう自然と外れていた。日産自動車を選んだ自分の進路は、その後、村山工場の二年と、本社の数年と、そして輸出部門での出会いを通って、今、結婚式の段取りまで来ていた。
その自分が、半世紀の伏線を経て、結婚式の場所として、東電関連の施設を借りることになっていた。
若い日の自分が三十分早く出て行ってしまった、あの試験会場の組織と、自分の人生は、回り回って、結婚式という形で、もう一度重なり合った。これを、当時の自分は、あまり深く意識していなかった。半世紀経って、振り返ってみると、人生というものは、こういう不思議な巡り合わせを、当人の知らないところで、静かに編み続けているらしい。
式の当日、東電関連の施設の客間で、自分は、紋付き袴を身につけた。
隣に立った妻は、白無垢から色直しの華やかな着物に、装いを変えていった。両家の親族が、それぞれの席に座り、料理が運ばれ、祝いの言葉が交わされた。父の顔も、母の顔も、穏やかだった。妻の側のご両親も、よい表情をしておられた。式の細部は、もう記憶の彼方にある。ただ、その日の客間の空気が、温かく、満ち足りていた——それだけが、半世紀経った今も、自分の中に、しっかりと残っている。
新婚旅行は、タヒチのボラボラ島と決まっていた。
当時の日本人の新婚夫婦にとって、南太平洋の島々は、まだそれほど一般的な行き先ではなかったかもしれない。ハワイか、グアムか、ヨーロッパか——典型的な選択肢の中で、ボラボラを選ぶ夫婦は、それほど多くなかったと思う。誰の発意で、ボラボラに決まったのか、もう記憶は曖昧である。極東部で南太平洋の離島を担当していた妻にとって、太平洋の島々は、机の上の遠い販売店の地図だった——その机の地図が、新婚旅行で、足の下の現実の砂浜に変わる、というのは、面白い符合だった。
飛行機は、長い時間をかけて、太平洋を渡った。
機内の窓から見下ろす海は、日本近海とは、まったく違う色をしていた。深い青が、限りなく広がっている。雲の影が、海面に落ちて、ゆっくり流れていく。妻は、窓に額を近づけて、その色をじっと見ていた。彼女の横顔を、自分は隣の席から見ていた。フロアの仕事中の真っ直ぐな立ち姿でもなく、合コンの夜の柔らかい笑顔でもなく、休日の山行の軽やかな足取りでもない、新婚旅行の機内の、また別の彼女の横顔だった。
ヌーメアで、一度、飛行機を乗り換えた。
ニューカレドニアの首都であるヌーメアは、ボラボラへの経由地だった。乗り継ぎの待ち時間に、自分たちは、市内の市場を散策した。フランス領の名残のある建物の並ぶ通りを、二人で歩いた。市場には、現地の人たちが営む露店が、たくさん並んでいた。野菜、果物、魚、そして、観光客向けの土産物。色とりどりの貝殻を使った首飾りや、織物や、木彫りの小物が、店先に並んでいた。
一軒の露店で、現地のおばさんが、貝殻の首飾りを売っていた。
体格のしっかりした、笑顔の温かい、地元のおばさんだった。妻が、その首飾りの一つに目を止めて、手に取った。色合いの優しい、繊細な作りの首飾りだった。値段を尋ね、少しのやり取りがあって、自分たちは、その首飾りを買うことにした。買い物が決まると、おばさんは、目を細くして大きく笑った。歯の白さが、笑顔の中で印象に残った。
記念に、写真を撮らせてもらえないか、と頼んだ。
通じる言葉は、片言だった。それでも、写真、という言葉と、こちらの身振りで、おばさんはすぐに理解してくれた。喜んで応じてくれた。市場の通りすがりの方に、シャッターを押してもらって、妻と、おばさんと、自分の三人で、店先に並んで写真を撮った。三人とも、満面の笑みだった。誰一人、構えた笑顔ではなかった。買い物の喜びと、見知らぬ国の市場の出会いと、新婚旅行の高揚と——それらが全部、その一枚の写真の中に、自然に収まっていた。
その写真は、後年、ある形で報われることになる。
新婚旅行を主催してくれた旅行会社が、新婚旅行のスナップ写真を募集していた。帰国してから、自分たちは、ヌーメアのおばさんと一緒に撮ったあの一枚を、応募作品として送ってみた。送ってからしばらくして、優勝の知らせが届いた。記念品として、時計の付いた立派な品が、自宅に届けられた。あの写真の笑顔が、選ぶ人たちの目に、何かを伝えたのだろうと思う。半世紀近く経った今でも、その写真は、家のどこかにあるはずである。探せば、必ず見つかるはずである。
あの笑顔は、新婚旅行の数日のうちで、最もよい瞬間の一つとして、二人の中に残った。
ボラボラに着くと、世界が、まったく違う色をしていた。
サンゴ礁のラグーンの水は、透き通っていた。底の砂が、水を通して、はっきり見えた。色の濃いところと薄いところが、グラデーションになって、海面の下に広がっていた。空は、限りなく青かった。雲が、ぽつりぽつりと浮かんで、ゆっくり流れていた。風が、椰子の葉を揺らしていた。それだけの風景だった。それだけの風景が、二人を、ただ静かに包んでいた。
一日中、サンゴ礁の海で泳いだ。
マスクとシュノーケルをつけて、二人で海に潜った。海中には、想像を超える色の魚たちが泳いでいた。青、黄、赤、縞模様、斑点。形も、大きさも、それぞれの種類で違っていた。サンゴの森の間を、魚たちが、自分のペースで動いていた。妻の手を取って、海中で、魚たちのほうへ近づいていく。妻は、手の中で何度も握り返してきた。その握り返しの中に、彼女の感動が、伝わってきた。
カヌーで、ラグーンを漕いだ。
小さなカヌーに、二人で乗った。前と後ろに座って、それぞれパドルを握った。最初は、息が合わなかった。カヌーが、思った方向に進まなかった。しばらくすると、二人の漕ぎ方が、自然に合ってきた。妻が、前で漕いだ。自分が、後ろで方向を取った。ラグーンの上を、カヌーが滑るように進んでいく。波もなかった。風も、優しかった。二人だけで、ラグーンの真ん中まで漕ぎ出した。
真ん中で、しばらくパドルを止めて、空を見上げた。
青い空が、限りなく広がっていた。下を見ると、青い水が、限りなく深かった。カヌーは、空と水の間に、ふわりと浮いていた。その瞬間、自分の中で、何かが、ふっと軽くなっていた。村山に置いてきた言えなかった言葉も、本社のフロアで繰り返された言えない恋も、川崎の夜のヘッドライトの重みも——それらの一つ一つが、ボラボラのラグーンの上で、ゆっくりと薄らいでいく感覚があった。寂しさの底を一度通った若い男が、ようやく、太平洋の真ん中で、息を吐く場所を見つけた。
言葉のいらない、二人だけの数日だった。
帰りの途中、どこかで、信じられないほどの夕日を見た。
どこで見たのか、もう、はっきり思い出せない。ボラボラのリゾートのテラスからだったのか。ヌーメアの空港の待合室からだったのか。あるいは、飛行機の窓からだったのか。記憶の中で、場所は、もう曖昧である。ただ、その夕日の色だけは、半世紀近く経った今でも、自分の中で、そのまま残っている。あの色は、これまで自分が見てきたどんな夕日とも、違っていた。
赤、橙、桃、紫、群青——空のすべての色が、同時に、燃えていた。
雲が、その色の波の中に、立体的に浮かんでいた。海も空も、夕日の光に溶けて、境目が消えていた。それは、美しい、という言葉では足りなかった。荘厳、と言っても足りなかった。おどろおどろしい、という言葉のほうが、近かった。神様か何かが、空のキャンバスに、自分の力の全部をぶつけて筆を走らせている——そういう種類の景色だった。自分は、息を止めて、その夕日を見ていた。隣で、妻も、同じように息を止めていた。
カメラを取り出して、その夕日を写真に収めた。
フィルムカメラの時代である。シャッターを押す手が、少し震えていた。撮ってからすぐに見られる時代ではなかったから、その瞬間の自分の手がうまく撮れていたかどうかは、帰国して現像してみるまで分からなかった。現像された写真には、夕日が、たしかに写っていた。しかし、現実に目で見ていたあの色には、フィルムは、半分も追いついていなかった。当然のことだったが、それでも、その不完全な写真は、二人の宝物の一枚になった。
今、その写真を見返しても、その時の本物の景色を形容する言葉が、自分には見つからない。
半世紀近く経って、自分の語彙は、若い頃よりは、それなりに豊かになっているはずである。それでも、あの夕日を形容できる言葉は、自分の中にない。たぶん、人間の言葉には、もともと、ああいう景色を写し取る力が、最初から備わっていないのだと思う。それは、写真という機械にも、絵画という技術にも、たぶん同じことなのだろう。本当に圧倒的なものは、人間のあらゆる表現の道具を、すり抜けていく。
あの夕日の景色は、思い出の彼方に沈んだ風景として、二人の中に、静かに残った。
新婚旅行から帰ると、二人は、多摩の家に戻った。
出発前は、自分一人の家だった場所に、二人で帰ってきた。玄関の鍵を開ける時、妻が隣に立っている、というのが、まだ慣れない感覚だった。家の中の空気は、出発前と変わらなかった。しかし、二人が並んで玄関に立った瞬間から、その空気には、新しい色が混ざっていた。机の上のスタンプ台と判は、いつもと同じ場所にあった。ただ、それを見つめる自分の目の隣に、もう一つの目があった。
二人だけの食卓が、始まった。
朝、出勤前に、二人で朝食を取る。夜、帰ってきて、二人で夕食を取る。ごく普通の、新婚生活だった。そのごく普通の生活の重みを、自分は、毎日、噛みしめていた。一人で食べていた朝食、一人で帰っていた夜の家、一人で過ごしていた週末——それらの一つ一つが、二人の食卓に変わっていく。それが、奇跡のように感じられた時期だった。寂しさの底を一度通ってきた人間にとって、誰かと一緒に食卓を囲む、という当たり前の風景が、どれだけ深いものか——自分は、その重みを、骨で知っていた。
あのボラボラの数日間が、二人の中に、確かな光として残っていた。
ヌーメアのおばさんと一緒に映った、満面の笑みの写真。サンゴ礁のラグーンの上で漕いだカヌーの感触。空のすべての色が同時に燃えていた、あの夕日の景色。それらの記憶が、二人の生活の中に、静かな光として残っていた。日常の食卓の隅で、それらの光は、いつも、薄く差し込んでいた。それが、若い夫婦の最初の生活を、深いところで支えていた。
あの夕日の重さを、二人で受け取ったあの数日間が、その後の人生の長い道のりを、深いところで支えてくれた——そう、半世紀経った今、自分は思っている。
ただし、その光の数か月後に、二人を待っていた、もう一つの扉のことを、当時の自分は、まだ何も知らなかった。多摩の家の食卓の向かいに座る妻の中に、ある時から、小さな影が見えるようになっていた。それが何の影なのか、最初の頃は、自分にも、彼女自身にも、分からなかった。やがて、それは、ある検査の結果として、はっきりとした形で、二人の前に現れることになる。
その話は、次の話に書く。
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