
二つ前の駅から駆け込んできた爺さんは汗を拭いて女の隣に腰掛けた。爺さんは田舎者である。女と爺さんは懇意になって話を始めた。 女の話は、久し振リで国へ帰って子供に会うのは嬉しいが、夫の仕送リが途切れて、仕方なしに親の里に帰るのだから心配だ。夫は、呉にいて海軍の職工をしていたが、戦争中は旅順の方へ行っていた。戦争が済んでから一旦は帰ってきたが、間もなくあっちの方が金が儲かると言ってまた大連へ出稼ぎに行った。初めのうちは音信もあったが、半年前ぐらいから手紙も金も来なくなってしまった。安否がわかるまで里に帰って待っているつもリだ. . . と、ざっとこんな話である。 爺さんは、それは大いに気の毒だと言い出した。自分の子も戦争中に兵隊にとられて、とうとうあっちで死んでしまった。一体戦争はなんのためにするものだかわからない。後て景気でもよくなればなんだが、大事な子は殺される、物価は高くなる、こんな馬鹿げたものはない。世のいい時代には、出稼ぎなどというものはなかった。みんな戦争のおかげだと大いに不満を訴えていた。爺さんは、汽車が止まったら、女に挨拶をして出て行った。 日露戦争後、日本は大不況に見舞われた。戦争には勝ったものの庶民の生活は却って苦しくなっている。 『気楽に楽しむ漱石入門「三四郎」』武田邦彦 (文芸社刊 2016年)より R0720250331
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