何だかんだ言っても、やはりみんな幸福な生活を望んでいるのではないでしょうか。そのために、日々生活し、活動し、出逢いなどなど行っています。日常の生活で感じた事、実際に経験したことなど、徒然のままに、記録してみます。
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2022年9月29日木曜日
「過去の遺産」を食いつぶしてきた日本
かつての教育基本法の第1条には「真理と正義を愛し」とありました。これは「真理」を愛する人は「正義」を大切にする傾向があるからで、真理と正義は人を作る“教育”という点では切り離せないことを示しています。
少し軟らかい表現を使えば、「ウソを言う人が正義を愛するはずはない」と言うことです。
いまから10年ほど前、温暖化の議論が盛んになった頃のことですが、私がある国の委員をしている東大教授と話をしたら、その教授はこう言いました。
「武田先生、私たちの中で温暖化をまともに信じている人などいませんよ。でも、それでうまくいくのだからいいじゃないですか」
また同じ頃のことですが、ある知識人風のタレントが「現代の社会は、本当のことは何かをギリギリと議論するのはダサいのです」と言っていました。まさに、「このまま空気に従って生活していればいいのだからうるさいことは言うな」という雰囲気だったのです。
このような雰囲気でも日本がやってこられたのは「過去の遺産」が蓄積されていたからです。自らが努力し、発展しようとすると「事実」はとても大切です。活動によって何かを生み出さなければならないので、リスクもあるし、判断も求められます。
でも親の遺産を食いつぶしながら生活するなら、事実がどうであれ、誠意がなくても暮らしていけます。1990年頃のバプル崩壊以後の日本は「食いつぶし時代」でもあったのです。
そこで活躍したのは、ノーベル賞を取れない東大教授(虚の研究)、受信料を強制的に取らないと運営できないNHK、補助金をもらわないと設置できない太陽光発電、エコポイントがつかないと売れないものを作る家電メーカーなどでした。
もちろん、それまで蓄積した富を食いつぶしていくのですから、赤字国債、資源を無駄に使うリサイクル、ダイオキシン騒動、それに日本だけがCO2を削減している地球温暖化騒動なども、「真理と正義を愛する」ということとは遠く離れて、「それでうまくいくのだからいいじゃないか」という流れだったのです。
私はこれらのことが「事実ではない」と言い続けてきましたが、ほとんどの反応は「うるさいな。どっちでもいいじゃないか」というものでした。国の政策と異なる意見を言い続けていたので、名古屋大学にいるときでも研究費確保が大変でした。
そのとき、中央官庁の課長から教授になっていた人が「武田先生、研究の申請書だけは、リサイクルとか温暖化、持続性社会などと書けばいいじゃないですか」と好意的にアドバイスしてくれました。
しかし、格好良いことを言うようですが、学者は「真理と正義を愛する」のですから、まさか研究申請書にウソを書くわけにはいかないのです。でも私の知っている東大教授の中には申請とまったく違う研究をしていた人も多くいました。
彼らにとっては教授という仕事は「お金と名誉を得るための道具」であり、真理と正義を求める仕事ではないからです。
このような「転換」はよく見られます。例えば1980年代に企業の社会的責任や企業倫理の重要性が叫ばれました。最初は真面目な議論だったのですが、そのうち、「企業でまずいことが起こったら、どのようにウソを言って企業の損害を少なくするか」という方向に進んでしまったのです。
「正しいとは何か」のもっとも底部に流れるものは「真理と正義を愛する」ということであり、なぜ「真理と正義を愛する子どもたち」を作らなければならないかと言うと 、「平和的な国家及び社会の形成者」にならなければということです。
つまり、正しい国家や社会の形成には、国民が真理と正義を愛さなければならないのですから、「空気的事実」こそ、憎むべき存在なのです。
『「正しい」とは何か?』武田邦彦著 小学館より
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